*科学するほど人間理解から遠ざかる第1回
快さとか苦しさというのが何であるかこの文章では確認します。以後、快さと苦しさをひとつに合わせて、快さ苦しさと表記したりすることをお許しください。
いまから例によって例のごとく、本題に入るまえに何やらグジャグジャとひとしきり申します。本題にいきなりお入りになりたい方はどうぞお気遣いなく、第3回目の冒頭へシュワッチとお飛びください。
(第3回はこちら)
では、はじめます。
西洋学問ではこれまで、快さ苦しさは何であるか、まったく理解されてきませんでした。そう言い切ってしまっていいのか、あまりにも自分は寡聞だし、ド素人だし、酒臭いし、とタメらわれないでもありませんが、みなさんの顔色をビクビクと伺いながらもやはり俺はそう断言することにします。
いや、いま思いのほか、みなさんがホトケ様のように見えたのをいいことに、いっそ図にノッてこう申し上げてしまいましょうか*1。
要するに、西洋学問ではまったく人間は理解されてこなかったんだ、と。
申し上げすぎでしょうか。
でもそうでしょ?
快さ苦しさほど、ふだんみなさんが気にかけておられるものは他にありません。みなさんはどなたも、朝つぶらな瞳をお開きになってから、夜ふとんのうえにドテンと大の字におなりになるまで、四六時中、快さ苦しさをずっと気にしておいでです。ちょっとでも快さが減じたら、それを盛り返そうと、菓子を口にお運びになったり、休憩をとろうとなさったり、アレ(?)のことで頭をいっぱいになさったり、酒に手を延ばされたり(コレは俺だけか……)。
また、嫌な思いをしそうなことや、楽しそうなことを、事前に敏感に察知なさっては、そそくさ〜とお逃げになったり、猛然と駆けよっていかれたり。
こんなにもみなさんがふだん気にしておられる快さ苦しさが何であるか理解できてこなかったとなればもう、人間をまったく理解できてこなかったのとおなじだと申し上げても、申し上げすぎにならないんじゃありませんか。
ともあれ、西洋学問ではこれまで快さ苦しさは何であるか理解されてこなかったと最初に申し上げたところについてはみなさん、さほど異論をお持ちではないようです。
たしかに、健康や病気についてすこし考えてみるだけでも、快さ苦しさが何であるか西洋学問では理解されてこなかったことがすぐにわかります。確かめてみましょう。
医学はひとを、正常なものと異常なものとに二分し、前者を健康とか健常と、後者を病気とか障害とよんでやってきました。ちょっと考えさえすれば、異常なひとなどこの世に誰ひとりとして存在し得ないとわかるはずであるにもかかわらず、医学が多くのひとたちを不当にも異常と決めつけ、差別すること、実に実に長きにわたります(このことについては2017年秋から2018年春にかけてしつッこく確認しました*2)。
実際のところ、ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しまないで居られている」ことを表現するためのものであり、また病気という言葉も、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものであって、正常とか異常とかを言うものではありません。なのに、どうして医学はワザワザ、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてきたのでしょうか。
異常なひとなどこの世には存在し得ないということがわかっていなかったというのも、もちろんあるでしょうけれども、それよりなにより、そもそも快さ苦しさが何であるのか、理解できていなかったのではないでしょうか。そして、理解できていないそのものから人情にしたがって目を背け、代わりに正常、異常というものをどこかから持ち出してきて、健康と病気を定義づけた、ということなのではないでしょうか。
2019年11月8、9日に文章を一部修正しました。
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