(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

見えている姿を科学は心のなかにある映像とする(後編)

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第5回


 で、科学はつぎのような視覚論を語ります。


 俺の前方数十メートルの場所に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」に当たった光が、その「ほんとうの松の木についての情報を俺の眼球まで運んでくる。するとそこでこの情報は電気信号のかたちに変換され、以後そのかたちで視神経をつうじて脳まで伝達される。脳はこうしてやってきた「ほんとうの松の木」についての情報を最後に電気信号のかたちから映像に変換し、俺の心へ手渡すのだ、と。


 俺は俺の心のなかに脳によって作られたこの映像(その瞬間、俺が目の当たりにしている松の木の姿)に触れることで、俺の前方数十メートルの場所に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」に間接的にのみ関われる、とするわけです。


 いちはやく「絵の存在否定」という不適切な操作を大っぴらにやってのけ、科学の基礎をことごとくかたち作っていった哲学者兼科学者のデカルトも、俺が目の当たりにする松の木の姿を、俺の心のなかに作りあげられた、見ることも触れることもできないほんとうの松の木」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報とする視覚論を語っています*1。俺の前方数十メートルの場所に実在すると科学が考える、見ることも触れることもできないほんとうの松の木」を対象と、かたや俺の心のなかにあると科学が考える、「ほんとうの松の木についての情報を感覚と、それぞれ呼ぶ言葉の用いかたで彼はこう言っています。以下、精神というのは心のことです。

「わたしたちの外部にあるもの、つまり感覚の対象に関係づけられる知覚は、これらの対象によって引き起こされる(少なくともわたしたちの考えが偽でなければ)。これらの対象が、外的感覚の器官のなかに何らかの運動を起こして、神経を介して脳のなかにも運動を起こす。これらの運動によって、精神が対象を感覚するのである。たとえば、松明の光を見、鐘の音を聞くとき、この音とこの光は、二つの異なる作用〔能動〕である。それらは神経のある部分に、そして神経を介して脳のなかに、二つの異なる運動を起こし、ただこのことによって、精神に二つの異なる感覚を与える。この二つの感覚を、わたしたちは原因と想定される主体に関係づけ、松明そのものを身、鐘を聞いていると考える」(デカルト『情念論』谷川多佳子訳、岩波文庫、2008年、pp.23-24、1694年)

情念論 (岩波文庫)

情念論 (岩波文庫)


 このようにデカルトも、彼が目の当たりにする松明の姿を、彼の前方にあるものではなく、彼の心のなかにある映像であることにし、彼の前方に実在する見ることも触れることもできない「ほんとうの松明の光についての情報であることにするいっぽうで、彼が耳にする鐘の音については、彼のはるか上方の塔のうえで鳴っているのではなく、彼の心のなかにある像であることにし、見ることも触れることも聞くこともできない、彼の周囲に実在する空気の振動についての情報であることにしています。

つづく


次回は2月1日(水)朝7:00にお目にかかります。


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

*1:彼の思想の出発点である方法的懐疑は、事のはじめに「絵の存在否定」を為した結果と言えるのではないかということを、「デカルトの超絶てじなぁ~ニャで科学は基礎を形づくる」でかつて書きました。