(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学とは現実を大改造する営みである

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第17回


 ここまで、科学が「絵の存在否定」と「存在の客観化」という一連の作業によって存在同士のつながりを切断し、「身体の感覚部分」を身体や世界から除外したり、存在から容姿(色を含む)、音、匂い、味をはぎ取ったりする次第を確認してきた。科学はこのように存在同士のつながりを切断したあと、ばらばらになった存在同士を、新たに考案しだした因果関係と呼ばれるつながりでつなぎ替えるわけであるが、そのつなぎ替えについてはまた別の機会に確認する予定である。


 こうした存在同士のつながりを切断する一連の作業の詳細を文字で一番はじめに表現したのは、先にも少し触れたとおり、科学の先駆者のひとりに数え上げられるデカルトであると言って良いように思われる。彼が彼の学をはじめるにあたって最初に見つけた絶対確実な知とされる、「われ思うゆえにわれ在り」や、彼の身体機械説に、「絵の存在否定」を見てとることができ、いっぽう「存在の客観化」については、彼の延長についての考察(『省察』での蜜蝋の比喩が有名である)に認めることができる(「客観化」については、バートランド・ラッセルも『哲学入門』でやってみせている)。ただし寡聞な私は、当時すでにほかのひとたちが広くやっていた、存在同士のつながりを切断するこうした一連の作業を本格的に文字にしたのがデカルトだったのか、それとも、そういった切断作業を本格的にやり出したのが彼で、科学が丸々それに乗っかっただけなのかは存じ上げない(有名科学者がデカルトの悪口をおっしゃっておられるのをときどきお見かけするものの、私は内心では後者であると考えているが)。

省察 (ちくま学芸文庫)

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哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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哲学入門 (ちくま学芸文庫)

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 しかしそんな寡聞な私にも確実に言えることがある。それは、存在同士のつながりを切断する「絵の存在否定」と「存在の客観化」という一連の作業のうえに科学が据えつけられているということである。科学の知覚論(脳がいかにして外界の様子を把握するかを説く)は、世界からみなさん方の「身体の感覚部分」を除外し、さらには現にみなさん方が目の当たりにされている物の姿、現に聞かれている音、現に嗅がれている匂い、現に味わわれている味たちを、みなさんの意識内部にある像とする「絵の存在否定」にもとづいて作られているし(科学の知覚論が、「絵の存在否定」にもとづいているデカルトの知覚論と瓜ふたつであるのは確認したとおりである)、「身体の感覚部分」を一切考慮に入れることなしに身体を説明する、生理学をはじめとした医学理論は、身体から「身体の感覚部分」を除外し、「身体の物的部分」だけをもって身体とする「絵の存在否定」の帰結にもとづいている(科学の医学理論は、デカルトの主張した身体機械説に、デカルトよりも忠実であると言えるのではないか)。それに、科学が存在には、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触が属していないとするところに、「存在の客観化」作業を認めないのは至難のわざでもある。


 科学とはまさに、何が在るのか(存在とは何か)、どのように在るのか(存在同士はどのようにつながっているか)ということを実際とは異なるように読み替えていく現実の大改造作業であると言える*1

(了)


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このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月2日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。