(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は存在を読み替え、存在の神秘を見失う

 科学は、というかデカルト以後の西洋では、存在を読み替えます。この読み替えにはもろちん利点もありますが、同時に問題点もあるかと思われます(それがささいなものなのか、それとも無視できないほどのものなのかは、今は考えないことにします)。たしかにこうした読み替えの結果、存在はすっきり説明されることになりますけれども、そのいっぽうで、存在の神秘(神秘という言葉をつかうのは気が進みませんが)を見逃すことになるわけです。今日はこの問題について一言申し上げさせていただこうと考えております。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 


 最初に、いま申し上げた存在の神秘について確認します。4つ事例をあげてみます。


 私が近寄っていくと、一輪のヒマワリの姿は刻一刻と大きくなります。実寸が大きくなっていくと申しているのではありません。大きくなっていくのはあくまでヒマワリの姿です。そうして姿が大きくなってこそ、ヒマワリは実寸を一定に保ち得ます。逆にいえば、私が近づいているにもかかわらず、ヒマワリが姿の大きさを変えなければ、私はヒマワリの実寸が刻一刻と縮んでいっているのを目の当たりにしていることになります。


 このようにヒマワリは私の身体にあわせて姿を変え、実寸を常に一定に保ちます。ヒマワリは応答しながら私の身体と共に在るといった言い方ができるでしょうか。それとも、ヒマワリは私の身体と共に在るにあたって応答すると言った方が適切でしょうか。もしくは、こう言うのはどうでしょう。ヒマワリは、「私の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答える。ともあれ、私はつねづねこのヒマワリの応答をすごいことだと感じておりまして(みなさんはどうでしょうか?)、いま、神秘的だと申し上げている次第ですが、科学は存在のこうした神秘を認めません。


 この神秘を認めないところに科学らしさがあると言えます。


 別の例を出してみます。いまいる部屋のなかで、急にうしろを振り向くとします。それでも私の背後にある壁は、私の首の傾けかたや、身体のひねり具合、視線などに完璧にあわせた姿をとって私を迎えてみせます。まるで私の一挙手一投足をずっと見守っているかのようです。つねに私の身体にあわせた姿を呈します。しかもその姿は、私のまぶた、目、視神経、脳の状態にまであわせたものとなっています。こう考えますと、部屋の壁は私の頭のなかまで把握していると言いたくなるほどです。私が物を見ているだけでなく、物も私を見ているのだと比喩的に言うこともできるかもしれません。あるいは、部屋の壁は、応答しながら私の身体と共に在るといった言い方もできるでしようか。もしくは、部屋の壁は、私の身体と共に在るにあたって応答する、と言った方が適切でしょうか。それとも、部屋の壁は、「私の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えると言うのはどうでしょうか。

知覚の現象学 〈改装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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 けれども科学は部屋の壁のこうした見事な対応もまた認めません。


 ヒマワリと私の身体、あるいは部屋の壁と私の身体のあいだのこうした神秘的な関わりから、私たちは昆虫や動物にみられる擬態を連想することもできます。そうした擬態の様子をテレビか何かでごらんになって驚かれた方も多くいらっしゃるかと思います(私もそのなかのひとりです)。この擬態という出来事で、昆虫の身体とその周囲の景色とのあいだに起こることは、ヒマワリに近寄っているときの私の身体とそのヒマワリのあいだに起こることと同じです。背後をふりむいたときに私の身体と部屋の壁に起こることとも同じです。昆虫の身体もまた、応答しながら周囲のものたちと共に在ります。周囲のものたちと共に在るにあたって応答します。「周囲のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えます。


 生物の身体についても同様のことが言えます。


 私たちは、生物が生きていくのに都合のよい身体をもっていることに驚きます。この都合の良さについて科学は進化論で説明します。各個体のDNA上にアトランダムに突然変異が起こり、その結果、多様な個体たちができあがるが、そのなかで環境に適応している個体(生きていくのに都合のよい身体をもったもの)だけが自然淘汰の末、生き残るのだと言います。キリンならその説明はこういったものになるのではないでしょうか。ある生物がいた。その生物のなかの個体AのDNAに突然変異Aが起こり、足が短くなった。個体BのDNA上には突然変異Bが起こり、足が一本少なくなった。そうしていろんな個体が突然変異でできてくるなか、個体Nには突然変異Nが起こり、首が長くなった。そしてこの首の長くなったものたちだけが、木の高い場所にある葉を食べることが可能となったため、生き残ったのだ(自然淘汰の末、生き残ったのだ)と。


 しかし、擬態のところで確認しましたように、生物の身体はそもそも、周囲のものたちと共に在るにあたって応答します応答しながら周囲のものたちと共に在ります。「周囲のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えます。生物身体の環境への適応変化も、いまキリンを例にみた進化論のようにアトランダムな突然変異と自然淘汰の組み合わせで考えなくても、説明できるのではないかと思われたりしますが、みなさん、いかがでしょう。


 以上、存在の神秘について、ヒマワリ、部屋の壁、昆虫の身体、生き物の身体と、計4つ挙げて確認してきましたけれども、科学は存在を、ただ無応答で、現に在る場所に位置を占めているだけのもの、と定義づけてきました。存在からそうした神秘をごっそり除きさって考えてきたのです*1

(了)

 

*1:2018年8月15日に一部修正しました