(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

位置取りの変化だけが変化であるものへ

 今日も何かのひとつ覚えように、科学による存在の読み替えについてひとこと申し上げようと参上いたしました。ただし今日は、変化という新たな観点からお話ししようと思います。


 ハガキを郵便ポストに入れにいく途中だとします。歩道の先に見えているポストに今私は刻一刻と近づいていて、そのポストの姿は一瞬ごとに大きくなっています。こうして姿が大きくなっていくことで、このポストの実寸は一定に保たれるということになります(単にポストにハガキを入れに行こうと近づいているだけなのに、非常にすごいことが起こっているわけです)。


 ポストに着くまでの間に日が陰れば、ポストの姿は薄黒くなるでしょうし、逆に日がさせば、ポストは光をうけてところどころ白くなった姿を呈することになります。


 このように郵便ポストは、私がハガキを入れるまでのあいだ一瞬ごとに変化していきます。


 ところが科学は、私が近寄っていって郵便ポストの姿が刻一刻と大きくなっていっても、あるいは日が陰ったり日が照ったりしてポストの色合いが変わったとしても、このポストに変化があったとは認めません。ポストの位置がずれるとか、割れるとか、傾くとか、色が変わる(着色料が付着した)といったような位置取りの変化が起こったときにのみ、このポストに変化があったと認めます(最後にあげた色の変化は着色料の位置取りの変化です)。


 科学は存在を、位置取りの変化以外に変化の仕方をもたないものへと読み替えるのです。


 私が近寄っていくにつれ、郵便ポストの姿が刻一刻と大きくなるといった変化も、存在の変化とは認めるが、研究するのはあくまで、存在の位置取りの変化のみに限定するといった方針をたてることも可能だったでしょう。何もこのように、存在の変化には位置取りの変化しかありえないとまでする必要はありませんでした。しかし科学は大胆にも、研究範囲を位置取りの変化に限定する際、位置取りの変化以外の変化を存在からとり除くという手に出たわけです。


 こうして科学にとって、存在とは、位置取りの変化以外に変化の仕方をもたないものになりました。科学が想定するこうした存在の最小単位は元素です。元素は私が近寄っていっても姿を大きくしないし、日の光の加減で姿が変わることもないものと想定されています。科学では、存在はこうした元素が組み合わさったものと考えられ、それら元素がどのような位置取りをするかを把握することが、存在を把握することだとされているわけです。


 したがって科学にとって人間を把握することもまた、人間の身体として集合している複数の元素がどのような位置取りをするかを把握すること(分子生物学脳科学を想起してみてください)になります。


 実際のところ、存在をこのように位置取りの変化以外に変化の仕方をもたないものに読み替えることには有効な面があると思います。が、その反面、限界もあるでしょう。その限界は、物について考察しているうちはまだいいですが、生きものを扱う段階に入って効いてきます。


人間のしている体験は、元素の位置取りの問題としては説明できません。見る、聞く、匂う、味わう、触れるといった知覚体験や、郵便ポストにハガキを出しに行こうと近寄るといった運動、あるいは腹を立てるとか喜ぶといった感情は、元素の位置取りの問題としては理解できないのです。

(了)