(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学がやる「存在の客観化」というのはどんな作業か、中間報告

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第14回


 科学の「存在の客観化」という存在と関係のすり替え作業を、なぜか柿の木をもちいてここまで見てきた。


 先に進むまえにここで、その作業過程をいったん箇条書きでもって復習しておこうとする、僕の神経質で息苦しくなるワガママをみなさん、お許しくださるだろうか。


 ならば、当初、前方数十メートルのところにあった柿の木に僕が歩みよっている場面を、みなさん、ご自分ごとのようにご想定になりながら、お聞きあれ。

  • 1.存在を絶対的なものと決めつける

 柿の木は、僕が歩みよれば刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすればその姿を黒くもしくは黄色っぽくするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。だけど、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることはないもの、すなわち無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と決めつける。

  • 2.みずからの思い込みを死守するために存在から邪魔ものをとり除く

 科学は柿の木を無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であることにするために、現実を修正する。僕が歩みよっている間に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがい(色や容姿)を、主観的要素(ジョン・ロックの言葉では第二性質。要するにニセモノ)にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除き、心のなかにうち捨てる。

  • 3.存在を骨と皮だけにする

 すると、それぞれの姿は、まったくちがいひとつすらないもの同士であることになる(歩みよっているあいだ、柿の木は終始不変であることになる)。それこそ、「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの延長)、である。

  • 4.発明品でつなぎ直す

 たがいに無関係である「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの同士を、因果関係(力なるものをもちいて別存在のありようを変える)という発明品でつなぎ直す。こうして柿の木は「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものであることになる。

  • 5.最小単位の集まりにする

 柿の木の部分間のちがいを説明できるようになるため、柿の木を部分ごとに分けて、別もの(別の力をもったもの)として見ていく。その結果、柿の木は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものの最小単位である元素の集まりにすぎないということになる。


 科学はこの要領で、その他のすべての物体、音、匂い、味、身体、など、この世にあるものすべてを、「元素の集まり」にすぎないことにする。


 この世に実在するのは元素だけだとするこうした見解こそ唯物論であると申し上げることができるんじゃないかと思うが、果してどうだろうか*1

つづく


前回(第13回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。