(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

大谷翔平選手の4シームを打席で見てみるの巻

 しつこいようですが、科学が存在を読み替えることについてひとこと申し上げます。今日は運動という観点からこの存在の読み替えについて申し述べようと参上いたしました。


 私はいろんなことに興味がもてなくなってきた(しょぼくれた)人間ですけれども、そんなしおれた私にも、プロ野球のピッチャーが投げる速球や変化球を肉眼でじっくり味わうように見てみたいという積極的な気持ちがかろうじて残っています。


 もし願いがかなうなら、今シーズンまだホームランを打たれていない大谷翔平投手(日ハム)のスピードボールを見てみたいかなと思います。


 夢見るころはすぎても、夢見るのは個人の勝手です。というわけで今日はいっちょみなさんのまえで夢見てみることにします。プロのバッターが手玉にとられる、大谷クンのスピードボールとはどんなものなのか、それはお茶の間でブラウン管にかじりついているだけではわかりません。想像のなかで球場に足を運ぶことにします。で、どうせ想像のなかでのことです、まえのりで球場近くのホテルに一泊し、(安くて)うまいものをたらふく食べ、翌日のために早めからたっぷり惰眠をむさぼることにしようと思います。


 さていきなりですが、当日がやってきたとお考えください。ところが私は球場の入口にさしかかったところで、はたと気がつくことになります。観客席のどの場所に陣どるかをまだ決めていなかった、と。


 想像のなかの私は観客席のどこにだって入れます。外野席レフト側から彼の投球を見ることもできます。それともライト側がいいでしょうか。センター側という選択肢もあります。内野席から見ることも禁じられてはいません。一塁側、三塁側どちらにも座れます。もちろんバックネット裏から見ることだってできます。


 私の想像のなかの筋書きでは、この試合で大谷クンは82球目にこの試合最速、159キロの直球を投げることになっています。その球は、埼玉西武ライオンズの四番バッター、おかわりクンこと中村剛也選手のアウトローいっぱいに決まります。


 まちがいなくこの82球目がこの試合のハイライトであり、彼がこの試合で投げる一番すばらしい速球です。


 ところがこの糸をひくような一球はたった一球であるにもかかわらず、複数の姿をもっています。この一球は観客席のどこから見るかによって異なった姿をとるわけです。観客席にぎゅう詰めで座っている(あるいは立っている)観客が見るこの一球の姿はふたつとしてそっくりなものはありません。すべてちがっています。私が目の当たりにするその一球の姿は、私の真横や真後ろにいる観客にだって目の当たりにすることができないものです。と同時に、それらのひとに見えるこの一球の姿は、私にも目の当たりにすることはできません。


 このように大谷クンの82球目のアウトローぎりぎりに決まる一球は、見ているひとの数だけその姿があります。では、観客席のどこにでも陣どることが可能である、想像のなかの私は、どこからその一球を見ればいいのでしょうか。


 どこから見るか、それが問題です。ちがうでしょうか。


 けれども私はどこに陣どるか即答します。悩む必要なんてありません。


 私は打席にたってこの速球を見るのです。右打席です。


 打者にはどう見えるのか、それが知りたい。打席からでなければわからないことがある。


 ちがうでしょうか。いやちがいません。


 大谷クンの82球目はどこから見るかで異なった姿をとります。いってみればこの82球目は(82球目に限らないですが)、私たちの身体や日の光や風といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに《答えるもの》です。しかし科学はこの球を、無応答で在るだけのものにすり替えます。つまり科学はこの82球目を、大谷クンの投球を見守っているすべての観客にとってまったくちがいがないものと考えます。そのようにすべての観客にとってまったくちがいがないのはこの球の位置取りだけです。球場全体に行きわたるよう、X軸、Y軸、Z軸をひきのばし、硬球の占める位置を三次元座標的にしめせば、この球の位置取りは表現できます。私が外野席からこの82球目を見る場合も、内野席から見る場合も、バックネット裏から見る場合も、打席にたって見る場合も、この82球目はそうした位置取りの変化として数字で言い表せることになります。


 しかし82球目の複数ある姿のうち、こうした位置取りの変化としてあますところなく説明できるものはひとつとしてありません。すなわちどの姿をとっても、位置取りの変化として説明したのでは、説明されないままあとに残るものが必ずでてきます。


 打席にたって見るこの一球も外野席から見る糸をひくこの一球もどちらも位置取りの変化はまるっきり同じですが、先に確認したように、それらの姿にはあまりにも多くのちがいがあります


 打席にたって大谷クンのこの82球目を見ていると、その硬球の姿はだんだんと大きくなってきます。実寸が大きくなってくると言っているのではありません。実寸は一定です。キャッチャーミットに近づくほどに球の姿は大きくなりますが、そのように大きくなってこそ、この硬球は実寸が一定になります。


 いっぽうセンターの外野席から見ると、この球はキャッチャーミットにちかづくほど、姿が小さくなります(もちろん実寸は一定です)。球の位置取りは、私が打席で見ているときとまるっきり同じではありますが。


 82球目の球の物体運動とはこうした姿の変化です。たしかに位置取りは変化しますが、位置取りの変化とだけ説明したのではまったく十分ではありません。そして私にとって、打席にたって見るこの球の運動と、センターの外野席から見るこの球の運動(テレビ中継でブラウン管ごしに見るこの球の運動といってもよいかもしれません)とは決定的にちがいます。前者は打てそうな気はまったくしません(打席にたって見たことはありませんが、打てそうな気がしないに決まっています)が、後者はちょっと打てそうな気がします。


 こうして存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに《答えるもの》から、ただ無応答で在るだけのものにすり替え、物体の運動をたんなる位置取りの変化と解すると、打てそうに思ったり打てっこないと驚嘆したりするといった私の体験(感じ方とか感情と言ったほうがよい?)は説明できなくなります(科学は脳をもちだして説明しようとするのでしょうけど)。


 科学(的思考法)にだって限界はあるということです。


 カントは(べつにカントをもちだす必要はないと思うのですが)『純粋理性批判』で理性の限界を検証したといいます。彼は、理性にはなんだって可能だというのではないことを確認したそうです(純粋理性批判の批判という言葉はそうした限界を検証することをいうとのことです)。

純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)

純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)

 


 最近にいたっては原発事故を経験した私たちは、科学の原理的限界について検証しておかないでよいのでしょうか。今現在のところ、科学はなんだってできる、黙って座ればなんでも当てる、科学に不可能という文字はないといったニュアンスが社会全体に響きわたっているような気がするのですが(愚かな私の愚かな気のせいでしょうか?)、それではたして大丈夫なのでしょうか*1

(了)

 

*1:2018年9月16日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。