(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ただ無応答で在るだけのもの

寺田寅彦、存在の読み替えについて第6回


 向日葵にしろ、人の顔にしろ、舞台上の演奏者の身体にしろ、音にしろ、それぞれは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を終始問われるものである。比喩的な言い方をすれば、それらはそれぞれ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにそのつど自らの姿で答えるものである。けれども科学は向日葵にしろ、人の顔にしろ、舞台上のソリストにしろ、音にしろ、光にしろ、熱にしろ、温度にしろ、重さにしろ、ただ無応答で在るだけのものとする。向日葵であれば、それは私がどこからどう見るかとか、日の光がどう照っているかといったことに左右されないものとする。舞台上のソリストは実際は観客席のどこから見るかで、その姿は異なる。私が目の当たりにしている姿は、私の真横や真後ろにいる人にすら同時には見ることのできないものである。が、科学はそのように私にのみ特有なソリストの姿は主観的なものにすぎないと考える。実際のソリストそのものは、誰がどこから見るかといった視点にすら左右されないものだとする。音も、私がどのような姿勢で聞こうが、耳をふさいでいようが、他人が大きな咳払いをしようが、そんなものには左右されないとする。光も、熱も、温度も、重さも、ただ無応答で在るだけのものとしてあると科学は考える。このように物や音をただ無応答で在るだけのものへすり替えることを、私たちは客観化*1と呼ぶことができるだろう。ただ無応答で在るだけのものとして科学が想定する、物や音などについては客観存在と名づけることが可能だろう。


 科学は存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものから、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)へすり替える(客観化)。もともと存在は何をとっても、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えている姿をそのつど呈するものであって、もとから他のものとの関係のなかにあるわけだが、科学ではそれぞれの存在を、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)にすり替え、たがいに無関係なものとして規定しておいてから、あとで、「客観存在」同士の関係を考えるということをするのである*2

つづく


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第1回


第2回


第3回


第4回


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*1:科学の存在を別ものにすり替えるこの操作を後日、「存在の客観化」とよぶことにしました。2018年8月16日記す。

*2:2018年9月11日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。