(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

位置取りに問題を限定する

寺田寅彦、存在の読み替えについて第11回

 存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えることで、向日葵も、机の一辺も、その表面も、蜜蝋も、位置を占めているという性質しかもたなくなる(いまは力については考察外に置く)。つまり、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものになるわけである。デカルトが考える、一個の蜜蝋とは、「延長をもち、柔軟で、変化しやすい」ものである。言ってみれば、位置の占め方は不変ではない「客観存在」である。科学はここから更に、位置の占め方まで不変な「客観存在」を考える。それが元素(原子)である。


 科学では、向日葵、蜜蝋、舞台中央のソリスト、机の一辺、平面などを、元素が組み合わさってできた「客観存在」と解することになる。存在を、位置の占め方が不変である元素または元素の組み合わさったものとして説明するのが科学の方法になる。


 私が見ている川の流れは、H2Oという分子の集まりと説明されることになる。舞台中央のソリストの身体は一つの分子構造ということになる。レモンの黄色は、レモンに属している性質ではなく、レモンに当たった後、目に入ってくる光の波長の問題にすぎなくなる。音は、現に聞いている音のことではなく、空気や液体の振動(分子の運動)であることになる。「たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだん物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり、『聞こえぬ音』というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけである(後略)」(寺田寅彦「物理学と感覚」の要約から*1)。熱さも分子の運動と解されることになり、重さ(質量)も元素や元素の組あさったものの位置取りの仕方(動かされにくさ)だということになる。匂いとはレモンや花の香りを指さず、鼻のなかに入ってくる匂い分子のことになる。味も舌のうえにある味物質のことになる。


 こうして科学はとり扱う問題を、元素または元素が組み合わさったものの位置取りに限定することになる。言いかえれば、扱う問題を、「どの位置を占めているか」という問いのみにしぼるということになる*2

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全13回)の記事一覧はこちら。

 

*1: 寺田寅彦「物理学と感覚」の要約は下の記事にあります。

*2:2018年9月14日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。