*寺田寅彦、存在の読み替えについて第10回
デカルトはこの「客観化」作業を使って、一個の蜜蝋を、ただ無応答で在るだけのものであるところの「客観存在」へと読み替えてみせる。
それはたったいま、蜜蜂の巣から取りだされたばかりである。それ自身の蜜の味のすべてをまだ失ってはおらず、そこから集められた花の香りを多少とも留めている。その色、形、大きさは明白である。固く、冷たく、容易に触れられ、指でたたけば音がする。要するに、そこに備わっているものはすべて、ある物体がきわめて明証的に認識されるために必要と思われるものばかりである(デカルト『省察』第二省察第11段落〜第12段落、山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006年、51〜53頁、1642年)。
- 作者: ルネデカルト,Ren´e Descartes,山田弘明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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この一個の蜜蝋が「どのように在るか」を捉えるというのは、この蜜蝋が「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにどう答えるかを捉えることである。
ところが見ていただきたい。私がこうして話している間、それを火に近づけると、残っていた味は抜け、香りは消え、色を変わり、形はくずれ、大きさは増し、液体になり、熱くなってほとんど触れられなくなり、もう打っても音を発しなくなる*1。
このように蜜蝋は固体としての姿も液体としての姿も呈することになる。しかしデカルトはこの蜜蝋を、ただ無応答で在るだけのものにちがいないと考える。火を近づけられようが、近づけられまいが、まったく何も変わらないものであるはずと決めつける。こうして蜜蝋の固体としての姿と、液体としての姿の間に認められる違いを、それら二つの姿から共にとり除き、そのあとに共に残る、たがいにまったく違いのないものをこの蜜蝋(客観存在)とすることになる。
それでも〔引用者注:液体になってもという意味〕なお同じ蜜蝋が残っているのだろうか? 残っていると認めなければならない。だれもそれを否定しないし、だれも別のようには考えない。では、蜜蝋においてあれほど判明に理解されていたのは何であったのか? たしかに私が感覚で捉えたもののいずれでもない。というのも、味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚の下に感じとられたものはみな、いまや変わってしまったが、蜜蝋は残っているからである。おそらくそれは、いま私が考えているものであったろう。すなわち、蜜蝋そのものは、あの蜜の甘さでも、花の香りでも、あの白さでも、形でも、音でもなく、少し前にはあのような仕方で、だが今は別の仕方で私にまざまざと現れている物体であった。しかし私がこのように想像しているものは厳密には何であろうか? 注意してみよう。そして蜜蝋には属さないものをそこから取り除けば、何が残るか見てみよう。すなわち残るのは、延長をもち、柔軟で、変化しやすいあるものだけである*2。
デカルトの考える一個の蜜蝋には、外見、色、音、匂い、味、堅さは属さない。ただ位置を占めるという性質しかない。彼は別の著書でこう言っている。
そうすること〔知性だけを使用すること〕によって、我々は物質即ち一般的意味の物体の本性が、それが堅さや重さや色あるもの、或いはその他何らかの仕方で、感覚を刺激するものであるという点にではなく、ただ単に、長さと幅と深さとに拡がっているものである点に、存することを知るであろう(デカルト『哲学原理』第二部四、桂寿一訳、岩波書店、1964年、1644年)。
蜜蝋は、「客観化」作業で、ただ無応答で在るだけのものにすり替えられ、「ただ単に、長さと幅と深さに拡がっているもの」、つまり位置を占めるという性質のみを持つ「客観存在」になった。こうした「客観存在」を彼は延長(extensio)と呼んだのである*3。
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