(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は関係を別ものにすり替える

*存在のすり替えにともなう関係のつなぎ替え第2回


 かたや、この「客観化」という作法のもとでは、郵便ポストに近寄っていく私が目の当たりにする、刻一刻と大きくなるそのポストの姿は、私の心のなかにある像と解されます。つまり、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものとしてある存在から科学がとり除く、私が目の当たりにしている物の姿、現に聞いている、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている、現に触れている像は一転、私の心のなかにある像ということになります。いっぽう、「客観化」によってこしらえあげられた、「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの(客観存在)こそ、私の心の外に実在する本当の存在だと考えられるにいたります。そして、私に現に見えている物の姿、聞こえている音、嗅いでいる匂い、味わっている味、触れている像は、私の心の外に実在するこの客観存在についての私の心のなかにあるイメージだということになります。たとえば音は、私の心の外に実在する空気や物体の振動のことであり、私が現に耳にしている音は、私の心の外に実在するこうした物的な振動についての私の心のなかにある(脳がつくりあげた)イメージだということになるのです。


 以上、科学がデカルトたちから受け継いだ「客観化」という存在のすり替えについて確認しました。それは存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替える作業でした。そうしたすり替えるをすると、存在は、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(元素または元素の組み合わさったもの)になるということでした。それが私の心の外に実在していて、見る、聞く、匂う、味わう、触れるとは、そうしたものに対応するイメージを私の心のなかに持つことになるのでした。


 では最後に、こうして存在がすり替えられるとき、関係もまたすり替えられることになるのを確認します。


 何度も申しますように、私が近寄っていくと、郵便ポストの姿は刻一刻と大きくなります。遠ざかると逆に刻一刻とその姿は小さくなります。郵便ポストはこのように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えます。しかし、こうした問いに終始答えるのは何も郵便ポストに限ったことではありません。私の身体にとって、郵便ポストに寄っていくというのはまさに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えることではないでしょうか。存在は、郵便ポストであれ、私の身体であれ、太陽であれ、雲であれ、道であれ、音であれ、匂いであれ、味であれ、何であれ、このように「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものだと思われます。


 つまり存在同士はたがいに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答え合うと言えるのではないでしょうか。このことをもっと簡単に言えばこうなるでしょう。存在同士は、応答し合いながら共に在る。存在同士は、応答し合うといった、相手に合わせて自らを律する仕方でおたがい関係している、と。


 しかし科学は存在を、ただ無応答で在るだけのものにすり替えます。すなわち、存在同士を、たがいに無応答で共に在ることにし、存在同士のあいだの関係をいったん断ち切ります。で、そのあと、科学にとっての存在であるところの、ただ無応答で在るだけのもの(存在もどき)同士のあいだを、この世にはありもしないニセの関係でつなぎ直します


 存在同士のあいだのほんとうの関係は、応答し合うという、相手に合わせて自らを律するものでした。ですが、科学は、存在がそのように応答すること、すなわち「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えることを認めません。そんな科学には関係とは、相手にありようを変えられる(他に律せられる)といったものであるとしか考えられません。


 このニセの関係こそ、因果関係という名で呼ばれるものです。


 科学は存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替えると同時に、存在同士の関係を、相手に合わせて自らを律するものから、相手に律せられるという因果関係なるものに置き換えるというわけです*1

(了)


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全2回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月18日に、内容と表現を一部修正しました。