(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

存在が読み替えられていたと判明する

*身体すり替え事件第2回


 科学はデカルト哲学以来の趨勢にしたがって、事のはじめに存在を読み替えます。


 いま部屋のなかにいらっしゃるみなさんが、外に出ようとして、とびらに向かって歩み寄っておられるものとご想像ください。みなさんが歩み寄ると、とびらの姿は刻一刻と大きくなります。実寸が大きくなると申しているのではありません。実寸は終始一定です。姿が大きくなることで、とびらは実寸を一定に保つわけです。このようにとびらは、みなさんの身体と共に在るにあたってどのようにあるかという問いに、一瞬ごとに答えます。


 それだけではありません。みなさんが歩み寄るにつれ、とびらが部屋の明かりをうけて白くなる場所(とびらの模様)も変わっていきます。とびらが一瞬ごとに答える問いは、もうすこし厳密に申しますと、「みなさんの身体や部屋の明かりと共に在るにあたってどのようにあるか」と訊くものだ、と言えます。


 しかもとびらは、まえの道路をトラックが通れば建物ごと揺れもします。


 以上から簡単にこう言えます。とびらは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものである、と。


 しかし科学はとびらをそういうものとは見なしません。みなさんが歩み寄っても変化しないものとします。みなさんが近くから見ようが、遠くから見ようが、目をつぶろうが、不変なものとします。部屋の明かりがLEDであっても、オレンジ色であっても、あるいは部屋の明かりが消えていても、とびらはそんなことには左右されないとします。科学はそのようにとびらを、終始無応答で在るもの(客観的なもの)とします。その「終始、無応答で在るもの」とは、ここでは結論だけを申しますと、「どの位置を占めているか」しか問題にならない何かです(デカルトの言葉でいえば延長です)。「終始、無応答で在るもの」がなぜ、「どの位置を占めているか」しか問題にならない何かになるのかについては以前、「寺田寅彦、存在の読み替えについて」で説明しましたが、ふたたび「関係の読み替え(仮題)」でも書くつもりでいます(しつらこいとでも?)。


(「寺田寅彦、存在の読み替えについて」はこちら)


(2019年に書いたものはこちら。こちらのほうがお勧め)


 科学はとびらを、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものから、「終始、無応答で在るもの」、すなわち「どの位置を占めているか」しか問題にならない何かへ読み替えます。そうして、とびらに認められる変化を、位置取りの変化(占めている位置の変化)だけとします。みなさんがとびらに歩み寄ると、とびらの姿は刻一刻と劇的に変化しますけれども、科学は、とびらの位置取りが変わった場合しか(とびらが開閉したとか、建て付けがずれたとか、ヒビが入ったなどの場合しか)、とびらに変化があったとは認めません(下記の著書でデカルトはこの存在の読み替えをやっています)。

省察 (ちくま学芸文庫)

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哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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つづく


2018年8月17日と2019年9月3日に文章を一部修正しました。


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全4回)の記事一覧はこちら。