(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

随筆「物理学と感覚」

寺田寅彦、存在の読み替えについて第2回


 高知新聞の記事に出てくる随筆「物理学と感覚」(大正6年11月)を読んでみる。この随筆は科学の基本姿勢を的確につかんでいて、物理学にたいする寺田の異議申し立てについてもわかり易く説明している。この随筆のあらましからまず確認しよう。以下しばらく私の言葉で要約を述べてみる。


 人間は、見たり聞いたり匂ったり味わったりという五感をつうじて自然界の事物について知るものだと私、寺田は考える。


 しかし五感で外界のすべてを捉えきれているのかどうかはわからない。哲学では、外界にあるとされるものがほんとうに実在するのかどうかすら疑う者が多いが、科学はそこまでは疑わない。外界はあるとなんらの弁証なしに仮定して研究を進めていく。科学はひとつの仮定に則っているのである。ところで例えばマッハのような人は、感覚しか実在しないと断じているが、そうした感覚の世界というのは普通、私たちが外界と呼んでいるものの別名だと考えることができる。


 先にも言ったように、外界の事物の存在を私たちは、見たり聞いたり匂ったり味わったりといった五感をつうじて知るが、人間の五感というものは粗く、かつ、人によって違いの大きいものである。人間の肉眼では1ミリの数10分の1以下は判別できないし、強度な顕微鏡をかりても、1ミリの数千分の1以下は見えない。それに光学的錯覚というのがある。周囲の状況次第で、直線が曲がって見えたり色が違って見えたりする。音についてもこれと同様な限界があるし、触感にしても、人によって熱いと感じるか冷たいと感じるかは変わってくる。外界の存在を認めるには五感によるしかないとはいえ、このように粗雑で人によって異なる五感に頼ったのでは普遍的にものを捉えることはできない。つまり科学が成り立たなくなる。


 そこで普遍的な知識を成立させるために、私たちの感覚に基準をおくのではなく、物質界自身に基準をおく必要が出てくる。実にこの事情が、現代物理学にみなぎりわたっている非人間的自然観の根本になっているのである。


 ただし、感覚にではなく外界に基準をおいて外界について判断するというのは普段、誰でもがやっていることである。30センチの同じ棒でも、2メートル先にあるのと、20メートル先にあるのとではまったく異なった姿で見える。また同じ茶碗でも仰向けてあるのと、うつむけてあるのとでは姿がまったく異なってくる。同じ山でも4キロ先に見るのと、足下に見るのとでは全く違う。紙面にかいた四角でもどこから見るかで姿は変わってくる。 日常これらの違いを私たちが怪しまず、当然とみなしているのは、知ってから知らずか、私たちも幾何学的空間という基準を持って使っているということなのである。


 今述べたように感覚から離れたものの見方を日常の私たちもある程度やっているわけだが、物理学者が素人と異なるのは、この見方をどこまでも徹底していく点にある。


 音といえば当初、物理学では現に私たちが耳にしている音のことを指していた。ところがだんだん、物体や空気の振動という客観的なものとして考えるようになり、今や純粋物理学では私たちが聞くあの音についての概念は消滅するにいたった。光も同様で、天井の明かりや太陽の光のように、見て眩しさを感じたりする光ではなく、電磁波を指すようになった。温度も触感によるものを以前は意味していたが、今はすでに熱力学で言う絶対温度にまでいたっている。質量も物体にふくまれる実体の量というふうに考えられていたのは昔のことで、物体に力が加わるときにうける加速度を定める係数と考えるものが出てきたり、電子説が出てきてからは運動する電子のことだとする者がいたりといったことになっている。


 感覚されているものこそ実在であるとする、これまで勢力のあったマッハ一派に抗して、近年プランクなどは、実在するのはもっと絶対的な法則からできているものだとし、物理学を人間の感覚から解放するのだと勇ましい喊声をあげているけれども、逆に言うとそれは、感覚から出発して設立された科学の法則にあまりにも信を置きすぎているということにならないか。もし科学が究極的に獲得しうるものの大部分をすでに科学は得てしまっていて、あとは小さな穴をつくろうにすぎないというのであれば、プランクの言うことにも肯ける。が、近頃勃興してきた量子説などを見てもまだ古典的な物理学と矛盾していて、両者が融合できそうな気配はない。統一を叫ぶよりまえにもっと根本的に検討しなければならないところが残っているのではないか。


 今のところ生物界の現象に手をつけられるところまで物理学は行っていないし、生物現象をすべて物理学で説明できるとも思われないが、プランクのように無生物質界の法則の統一ということを言うなら、生理学、心理学も含めたひとつの渾然たる理学という系統を設立しようという理想を持つこともできないではない。けれどもそういったものができあがるまでには、よほど根本的な改革を受けないといけないということになるだろう。


 私たちに与えられる実在とは、私たちが見たり聞いたり匂ったり味わったりする感覚であるとするマッハの考えに私はよりおおく共鳴する。存在するのは外界と、私の身体と、その間に起こる現象である。これらを感覚するところから経験もまたできてくる。そしてこうした経験から種々の抽象概念もできてきて、これをもって科学を組み立てていくことになる。このように組み立てていく際に用いる概念は、知識を整理するのに役立つのを選べばいい。思想の節約という観点で、どういう概念を用いるかを決めればいい。


 物理学を感覚に無関係にするというやり方は単にひとつの方便にすぎないのではないか。先にも書いたように、物理学を基礎づけている感覚の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義であって、かえって自然を蔑視するものと言われるのである。


 以上が随筆「物理学と感覚」の要約である。この随筆は、科学が外界の実在をなんの弁証もなしに仮定していることを確認するところから始まっていた。実のところこの随筆で論点になっていたのは、外界には何があるか、ということである。物理学はこの問いにたいし、外界にあるのは、聞こえない音(物体や空気の振動)や、見えない光(電磁波)や、体感できない、熱、温度、質量といった、感覚から離れたものであると答える。が、実際に、外界にあるのは感覚である。科学が外界にあると想定する、感覚から離れたものというのは、この五感から作りあげられたものである。感覚が基礎にあるというこのことを科学は銘記していなければならないし、これからも事あるごとに五感に相照らして道を決めていかないといけないが、にもかかわらず、科学は感覚抜きで空中楼閣をこしらえようとしている。簡単にいうと、これが科学にたいする寺田の異議申し立てだったのである。


 科学は感覚から知を汲みあげているにもかかわらず、感覚のそうした意義効用を無きものにしようとしているという、寺田のこの異議申し立てをもっと詳しく見ていこう。 そのために、科学が外界にあると想定する、感覚から離れたものが、五感からどのようにして作りあげられているのかを、私たちの日常体験をふりかえって、いまいちど確認してみることにしよう。

つづく


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