(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

みなさんが見ている虹の姿をみなさんの内部に移し替える

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第4回


 そして、「絵の存在否定」によって世界からみなさんがたの「身体の感覚部分」が除外されるこのとき、同時に、知覚体験も読み替えられる。


 いま前方の光景が私に見えていることから、その光景と、この瞬間の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言える。が、もし、これら、前方の光景と私の「身体の感覚部分」とを、それぞれが現に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士とは認めず、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と解すると、どうなるか。


「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、前方一帯と、私の「身体の感覚部分」とが、現に在る場所にただばらばらにあるだけということになる。それらをどう足し合わせても、私が前方の光景を目の当たりにしているという世界絵は出てこない。私が前方の光景を目の当たりにしているという世界絵は一転、存在していないことになる。その瞬間私には前方一帯が見えているはずはないということになる。


 しかし前方一帯が見えているはずはないと言っても、その瞬間、私が現に前方の光景を目の当たりにしていることは厳とした事実である。


 そこで科学は、このとき前方一帯が見えていないことにするために、現に私がその瞬間に目の当たりにしている前方の光景を、私内部意識にある映像であることにする。現に私がその瞬間に目の当たりにしている前方の光景を、私の前に広がってあるものから、私内部(意識)にある映像へと読み替えるわけである。


 科学は、現に私が目の当たりにする、窓、空、建物、地面、道路、車、海、といったもの一切の姿を、私内部(意識)にある映像とする。私が現に聞く遠方のスタジアムの歓声(音)や、現に嗅ぐキッチンのレモンの匂い、現に味わう口のなかのコーヒーの味もまた、私内部(意識)に移し替える。で、それら、私内部(意識)にある、映像、音、匂い、味に対応する存在が、外界(私外部)に実在することにする。科学の考えでは、外界に実在する存在たちは、じかには知覚できないものである。私内部(意識)にある、映像、音、匂い、味、は、私の脳によって私内部意識に作りあげられた、外界に実在する存在たちのコピー像である。外界に実在する存在たちから、その視覚情報、聴覚情報、嗅覚情報、味覚情報が、眼、耳、鼻、口といった感覚器官を通り、神経を伝って脳までやって来て、それらをもとに脳が、外界に実在する存在たちのコピー像を作りあげるとするのが科学の考え方である(ちなみに「身体の物的部分」は外界にあると科学はする)。


 いまこの一瞬に私が目の当たりにしている前方の光景、いまこの一瞬に聞いている数百メートル先のスタジアムの歓声(音)、いまこの一瞬に嗅いでいる隣の部屋のレモンの匂い、いまこの瞬間に味わっている口のなかの味は、いまこの瞬間、私の「身体の感覚部分」や「身体の物的部分」たちと、「ひとつの世界絵に共に参加している」。ところが、科学は、見る、聞く、匂う、味わう、触れる、といった知覚体験を、「ひとつの世界絵に共に参加している」ということから、すり替える。外界に実在する存在のコピー像を、脳が私内部(意識)に、映像、音、匂い、味として作りだすことに、である*1

つづく


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*1:2017年5月に表現を一部修正しました。