(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

姿の確認

寺田寅彦、存在の読み替えについて第3回


 自分の目の前にこちらを向いた人がいるとする。私はその人の顔を見ている。しかしこの人の顔で私に見えているのは、こちらに正対した面の、その上っ面だけである。顔の側面も背面も見えてはいない。当然頭の中身も見えてはいない。しかし目の前にあるのは、現に見えている、皮膚より薄い、その人の顔の正面の上っ面だけではない。見えているものしか存在していないということはない。もしそうなら、盲目の人にはほぼ世界は存在していないことになる。このとき、見えてはいないけれども、私の目の前にいる人の顔の側面も背面も頭の中身も、見えないありようとでもいうべき姿で、私の前にある。私の目の前にある、見えるありようをした、その人の顔の正面の上っ面の向こう側に、「見えないありよう」をした、その人の顔の側面や頭の中身や背面が、続いているのである。


 今、人の顔を例にして、目の前にあるのは見えている部分(「見えるありよう」)だけではないことを確認している。物には、「見えないありよう」とでもいった姿もまたある。私の前にいる人の顔でいえば、それは、「見えるありよう」と「見えないありよう」とが立体的に一連なりになったものである。


 私の目の前にいる人の顔は「見えるありよう」と「見えないありよう」とが立体的に一連なりになったものだというこのことをこれからおし広げていく。


 まず視野について考える。視野とは私の前方にひらけた立体的な広がりである。それは二種類の広がりからなるものと考えられる。ひとつ目の広がりは、人の顔や椅子といった物である。これについては先ほど、目の前にいる人の顔を使って確認した。物は、「見えるありよう」と「見えない」ありようとが立体的に一連なりになったものだった。


 もうひとつの広がりは、空いている場所である。この空いている場所という広がりは、向こう側が透けて見えるというありようをしている。向こう側が透けて見えるという「見えるありよう」が立体的に一連なりになったものである。


 したがって、二種類の広がりがあわさってできた、視野という広がり全体もまた、人の顔のように、「見えるありよう」と「見えないありよう」とが立体的に一連なりになったものだということになるのである。


 ここまでをふりかえってみる。まず、私の前にいる人の顔について、「見えるありよう」と「見えないありよう」とが立体的に一連なりになっているものであることを確認した。で、つぎに、私の視野全体も、「見えるありよう」と「見えないありよう」とが立体的に一連なりになったものであるのを確かめた。こうして、目の前にある人の顔、視野ときたあとは、視野に視野外を加えた全体を考えてみよう。


 他人の顔について考察していた際、私の目の前に、その人の顔の側面や背面や頭の中身が、「見えないありよう」とでもいった姿で存在しているのを確認した。「見えるありよう」だけがあるのではなかった。しかしそれは人の顔や、視野のなかだけにしか言えないことではない。視野の外についても言える。私の前に広がっている視野だけがあるのではなく、その視野の外に「見えないありよう」で、私の身体や、椅子や、足下の床や、天井や、背後の空いている場所や壁や、建物の外の広がりもまたある。視野という「見えるありよう」と「見えないありよう」とからなる立体的な一連なりに、視野外の、「見えないありよう」だけからなる立体的な一連なりが続いているわけである。


 視野と視野外とを足しあわせたこの一連なりこそ、私が今この一瞬に体験している、物(空いている場所も含む)の広がり全体だということになるのである。


 以上、姿というものについて確認した。ここから本題に入る。こういった姿がどのようにあるのかを更に見ていくことになる。

つづく


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