(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

みなさんの心とその中身の存在しか確実視しない

科学は存在同士のつながりを切断してから考える第5回

 が、私外部(外界)に実在する存在のコピー像を、脳が私内部(意識内)に作ることへと、知覚体験をすり替えると、このような疑いを抱くことになる。


 私内部(意識内)に脳によって作られた、映像、音、匂い、味といった像に対応するものが、果たしてほんとうに私外部(外界)に実在するのだろうか。私は、私内部(意識内)に作られた像から、それらに対応するものが私外部(外界)に実在するにちがいないと判断しているが、それはひょっとして勝手な思い込みにすぎないのではないだろうか。どう考えてみても、私外部(外界)に実在しないものの像を脳が勝手に私内部(意識内)に作りだしている可能性は否定できない。


 何もかも錯覚かもしれないではないか。或るとき、窓外に虹を見ていると思っていたが、直後にそれが、窓にクレヨンで描かれた色とりどりの線だったと判明したことがある。私外部(外界)には虹など実在していなかったのに、脳が私内部(意識内)にあやまって虹の映像を作りだしたというわけだ。


 それに何もかも夢かもしれないではないか。私がいま部屋のとびらの姿を目の当たりにしているのも夢のなかのことかもしれない。実際の私は寝室のベッドに横たわっていて、目の前にほんとうにあるのはとびらではなく、天井なのかもしれない。ただ脳が勝手に私内部(意識内)にとびらの映像を作りだしているだけなのかもしれない。


 私がいまこの一瞬に目の当たりにしている前方の光景や、現に聞いている歓声(音)、現に嗅いでいるレモンの匂い、現に味わっているコーヒーの味などを、私内部にある像と解するとこのように、果たしてそれに対応するものがほんとうに外界に実在するのかとか、そもそも外界自体実在しないのではないかと疑わしく思われてくる。で、実際に、こうした疑いを抱くところから自分の学をはじめたセレブリティがいる。科学の重要な先駆者のひとりであるデカルトである。彼はこう結論づけた。

省察 (ちくま学芸文庫)

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哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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 私は私内部(意識内)にいろんな映像、音、匂い、味を認める。しかし私外部(外界)にはそれらに対応したものが実在しないかもしれない。すなわち、太陽も、月も、身体(ただし「身体の物的部分」のことである)も、さらには外界自体も実在しないかもしれない。たしかに太陽も月も身体も外界も実在する可能性は認められるけれども、確実に実在するとまでは請け合えない。では、絶対確実なものなどありはしないのだろうか。いや、そんなことはない。絶対確実なことはある。それは、意識が存在するということである。意識内に認められる映像、音、匂い、味に対応するものは意識外部(外界)に実在しないかもしれないが、それらの像が意識にあるということもまた絶対確実なことである。意識と意識の中身とが存在するというこのことだけは絶対確実で、疑えない、と。

つづく


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