*寺田寅彦、存在の読み替えについて第9回
科学にとっての存在には外見も認められず、また色も、私たちが普段、目の当たりにする色としては認められなくなる。同様に、堅さも堅さとしては認められないことになる。
目をつむりながら、机の上にあるペンを上から押すと、堅い何かとして感得される。しかしこのとき、もし横から押すのであれば、ペンがテーブル上をすべって、堅いものとしては感得できないことになる。けれども科学が想定するこのペンはただ無応答で在るだけのものである。私の触れ方がどうあっても、まったく変わらないものである。上から押す場合に感得されるペンの堅い姿と、横から押すことにした場合の堅くはない姿との間にある違いを、この両方の姿から共にとり除いたあと、両方の姿に共に残る、まったく違いのないものこそ、このペン(客観存在)だと科学はすることになる。こうして私たちが感じる堅さも、科学の考える存在からは除きとられることになる。
更に科学は、私たちが聞く音、嗅ぐ匂い、味わう味も、存在からとり除く。このなかから音についてのみ見ておこう。
今この一瞬、私は観客席で、舞台中央にいるソリストが吹いた一音を聴いている。その一音は私には輪郭のぼやけた姿で聴こえている。しかしこのとき、観客席前方に座っていたとすれば、私はもっと輪郭のはっきりした、この音の姿を聴きえたはずである。あるいは逆にもっと後ろの席にすわっていれば、もっとこの音の姿はぼやけていたにちがいない。また私の真横に座っている人が咳払いをこの瞬間にしたとすれば、その音の陰に、ソリストのこの一音は隠れることになっただろう。しかし科学は音を、無応答で在るものと考える。私がどこに聞いていようが不変のものとする。そうして、観客席前方で聞こえる姿、中頃で聞こえる姿、後方で聞こえる姿、咳払いの陰に隠れる姿、それぞれの間にみとめられる違いを、これらの姿すべてからとり除いたあと、それらの姿に共に残る、そっくりなもの同士を、この音であるとする。この「客観化」の結果、科学が音と考えるものは、私たちが耳にしている音ではなく、空気や液体の振動のことになるわけである。
科学は存在のうちに、外見や、私たちが目の当たりにする色、聞こえる音、嗅ぐ匂い、味わう味、触れて感じる(触覚)像などが属しているとは認めない。存在のうちに科学が認めるのは、位置を占めているということだけである。すなわち「客観存在」(科学が存在と認めるもののこと)に属するとされるのは、位置を占めるというこの性質だけである(力という性質も持っていると考えられるが、ここでは力については考えない)。位置を占めるという性質だけをもったこの「客観存在」をかつてデカルトというひとは延長(extensio)と呼んだ(延長とは高さ、幅、奥行きへの広がりのことである)。
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まさに、ここまで確認してきた「客観化」作業を著書でいちはやくやってみせたのがこのデカルトだったのである(近代哲学の祖と言われる彼は、外界の存在を最初に疑った人であり、またそれと同時に近代科学の源流のひとりともされている)*1。
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*1:2018年9月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。