(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

存在の客観化

寺田寅彦、存在の読み替えについて第8回


 実際に、「客観存在」を作りだすこうした「客観化」という操作を簡単な例でいくつかやってみよう。


 部屋のなかにある一つの机を考えてみる。


 この机の表面には四辺ある。この机に着けば、手前にくる一辺を例にあげる。


 この辺が「どのように在るのか」を把握するのは、この辺が、私の身体や天井の明かりや机の置かれた足下の床などといった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることである。その席に着いている一瞬を考えてみると、この一辺は私にたいして、横にのびる線の姿をとっていることになる。しかしもしこのとき私がこの机を立ったまま横から眺めているのだとすれば、この一辺は、手前から向こう側にのびる線の姿で私の前にあることになる。この一辺はそのように、私の身体がどこにどのようにあるかによってまったく異なる姿をとるもの、言いかえれば、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものである。


 けれども科学はこの一辺を、ただ無応答で在るだけのものと考える。すなわち科学にとってのこの一辺は、私が机に着いているのであっても、そうではなく立ったまま横から眺めているのであっても、まったく姿を変えないものである。そこで科学は、真横にのびる線としての姿と、手前から向こう側にのびる線として姿の間にある違いを、これら両方の姿から共にとり除くことにする。そうしてとり除くと、両方の姿にはたがいにまったく違いのないものだけが共に残ることになる。それは何か。特定の長さとでも言うようなものである。これこそが、科学の考えるこの一辺(客観存在)だということになる。


 この机の表面をつぎに考えてみる。この平面を真上からみおろすとすれば、この表面は、たがいに平行に見える二組の対辺と、同じ角度に見える四角をもった姿をとることになる。が、このとき、もしこの平面を遠くから離れて見ているのだとすれば、この平面は、一組の対辺はたがいに平行に見えるが、もう一組の対辺は遠方の一点に向かって収斂しているように見え、手前の二角は鋭角、そして向こう側の二角は鈍角に見える姿を呈していることになる。ところが科学がこの平面として考えるのは、ただ無応答で在るだけのものである。この二つの姿の間に認められる違いを、両方の姿から共に除きさったあと、両方の姿に共に残る、そっくりなもの同士こそ、本当のこの平面だとすることになる。では最後に残る、そのそっくりなもの同士とは何なのか。四つの角度の数値が同じで、二組の対辺ともつねに一定間隔離れている、平らな広がりとでも言うべきものである。それこそが科学の想定するこの平面(客観存在)だということになる。


 一辺と平面について、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものから、ただ無応答で在るだけの「客観存在」をどのように作りだすか、実際にやってみた。こうした「客観化」の結果、外見とでも言うべきものが物からとり除かれるのを目の当たりにすることになった。


 今度は色についてこの操作をやってみる。例にあげている机の平面は天井の明かりを消すと、黒っぽい姿を呈することになる。しかし白い明かりを照らしているのであれば、白っぽい姿を呈することになるし、そうではなく部屋の中に日の光が差しこんでいるというのであれば、黄色っぽい姿を呈していることになる。この机の表面が「どのように在るか」を捉えるとはこのように、天井の明かりや日の光などといった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることである。ところが科学が考えるこの平面は、ただ無応答で在るだけのものだった。したがって天井の明かりが消されていようが、白い明かりがともっていようが、日の光が差しこんできているのであろうが、まったく同じ姿を呈していることになる。薄暗い姿、白っぽい姿、黄色っぽい姿の間にみとめられる違いを、これら三つの姿から共にとり除いたあと、どの姿にも残る、たがいにそっくりなものこそ、科学が考えるこの平面(客観存在)だということになる。こうして、私たちが目の当たりにしている色もまた存在からとり去られるのである*1

つづく


前回(第7回)の記事はこちら。


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*1:2018年9月11日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。