(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

客観化という存在の読み替え

寺田寅彦、存在の読み替えについて第7回


 科学が存在を、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)へすり替えることについて、長くなったが、ここまで確認してきた。寺田は随筆「物理学と感覚」で、自分はマッハのように、感覚こそ実在であると考えると書いていたが、感覚こそ実在であると考えるというのは、存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものと素直に取るということである。いっぽう彼は、科学が存在を、五感から離れたものとすると説明していた。その五感から離れたものというのは、ただ無応答で在るだけのもの(客観存在)のことである。科学が存在を、ただ無応答で在るだけのものへすり替えるこのことを先ほどから「客観化」と呼んでいるけれども、寺田がこの随筆で主題として扱っているのはこの「客観化」である。


 ではこれから、この「客観化」という存在の読み替えをもっと詳しく見ていくことにしよう。


 向日葵に近づいたあと、そのまわりを一周する場合を今、例にあげて考察している。もしこのとき向日葵に近づいていきはしないで、私がずっと遠くからこの向日葵を眺めているままだとすればどうなるか。向日葵に近づいていきそのまわりを一周する場合の私が目の当たりにすることになる向日葵の姿と、そのときずっと遠くに立ち尽くしたままであれば私が目の当たりにすることになるだろう向日葵の姿とは、どの一瞬をとっても異なることになる。


 このように向日葵はまさに「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものである。が、科学はこの向日葵を、ただ無応答で在るだけのものと考える。すなわち、向日葵に近づいていくことにしようが、遠くから立ち尽くしたまま眺めることにしようが、この向日葵は、どちらの場合も終始まったく同じだと考えるわけである。


 ところが当然、私がこの向日葵に近寄っていけば目の当たりにすることになるだろうこの向日葵の姿と、遠くから立ち尽くしたまま眺めることにすれば目の当たりにすることになるだろう向日葵の姿とは実際のところ、どの一瞬をとっても異なることになる。それらの姿がたがいにまったく同じになることは決してない。そこで、向日葵に近づいていく私が目の当たりにすることになるこの向日葵の姿と、それと同じ瞬間に私が遠くからただ眺めているだけであれば目の当たりにすることになるだろう向日葵の姿とを使って、科学は、ただ無応答で在るだけの向日葵を作りだすことになる。近づいていく私がある一瞬に目の当たりにすることになる向日葵の姿と、ただ遠くから眺めているだけにするのであれば私がその一瞬に目の当たりにすることになるだろうこの向日葵の姿、これら二つの姿の間に認められる違いを、両方の姿から共にとり除けば、どちらの姿もたがいにまったく違いがないものになる。このまったく違いがなくなったものを、科学はこの向日葵(客観存在)として考えることにするのである*1

つづく


前回(第6回)の記事はこちら。


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*1:2018年9月11日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。