(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答える姿

寺田寅彦、存在の読み替えについて第5回


 誰でもが日々体験していてよく熟知している単純なこと、すなわち、歩み寄れば向日葵の姿は大きくなっていき、遠ざかれば逆にその姿は小さくなっていくという、ごくごく簡単なことを、今わざわざ形式ばった言い方で表現している。


 再度、確認する。向日葵に向かって歩き出してから、その向日葵のまわりを一周し終わるまでの間、私は終始この向日葵の姿は「どのように在るか」と問うている。そして向日葵の姿は「どのように在るか」というこの問いかけは、この向日葵が、私の身体や日の光や風といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を訊くものだということである。


 このことを次のような比喩表現で言うこともできるだろう。


 向日葵に近づき始めてから、そのまわりを一周し終わるまでの間、向日葵は、終始、「どのように在るか」という問いを突きつけられている。しかし向日葵は「どのように在るか」というこの問いに単独で答えることは許されていない。向日葵に突きつけられた、「どのように在るか」と訊くこの問いは、この向日葵に、私の身体や日の光や風といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を問うものである。で、実際、向日葵は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」というこの問いに答えている姿を、一瞬ごとに呈することになっているのである、と。


 向日葵を例に、「どのように在るかは、他のものと共に在るにあたってどのようにあるかということだ」と確認しているけれども、これは向日葵だけではなく、私の身体にも、日の光にも、風にも、それぞれ言えることである。それらもまた、向日葵と同じく、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いを終始突きつけられ、一瞬ごとにその問いに答えている姿を呈することになっている。


 先に例としてあげた、人の顔にしても、私がどこからどう見るかで、真正面から見える顔、横顔、後頭部しか見えない姿など、いろんな姿を呈する。人の顔が「どのように在るか」を捉えるのは、それが私の身体や日の光といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることである。


 コンサート・ホールの舞台中央でソリストが演奏している。観客席にいる私が身体を傾けたり姿勢をただしたりすると、あるいはソリストに向けられたスポットライトが色や向きを変えたりすると、ソリストの姿は変わる(そのうえソリスト自身も動くわけだが)。私の前に座っている人の頭の位置がかわって、そのかげに隠れてしまうこともある。舞台中央のソリストの姿が「どのように在るか」を捉えるのは、そのソリストの身体が、私の身体や他人の身体やスポットライトといった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることである。


 音にしてもそうである。観客席で私は一音も聞きのがすまいと耳を傾けている。音をとり逃がさないようにと、音がいちばんくっきりした姿(音について姿というのはおかしいかもしれないが)を呈することができる姿勢しか私はとろうとしない。が、どんなに注意していても、誰かが咳払いをすると、その音のかげに演奏者の音は隠れてしまう。音が「どのように在るか」を捉えることも、音が、楽器や演奏者の身体や私の身体や他の音などといった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることなのである*1

つづく


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全13回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月11日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。