(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

どのように在るかとは、他と共に在るにあたってどのようにあるかということ

寺田寅彦、存在の読み替えについて第4回


 黄色い向日葵が地面に一本だけぽつんと植わっている。今この向日葵に遠くからゆっくり近づいていくと、その姿は一瞬ごとに少しずつ大きくなっていく(大きくなるのは向日葵の実寸ではなく、あくまでその姿である)。で、当初、向日葵は小さく、かつ細部がぼやけた姿を呈していたのに、近くに寄りきったときには、姿は随分と大きく、はっきり細部まで見えるものになっている。このように向日葵に近寄っていくことで、私はその向日葵の姿を複数、目の当たりにすることになる。そして、それら複数の姿は、たがいにすべて異なっているということになる。


 向日葵に近寄りきったあと、今度は向日葵の周囲をまわってみることにする。最初、この向日葵の顔が真正面に見えている。こちらを向いている向日葵の顔は丸く、その上っ面だけが「見えるありよう」を呈していて、その側面や中身や背面は「見えないありよう」を呈している。しかし私がその周囲をまわりはじめると、向日葵の丸い顔が徐々に斜めを向くようになる。と同時に、「見えないありよう」で在った側面が「見えるありよう」で在るようになり、あっという間に私は向日葵の横顔(幅)を正面にしていることになる。そして更にまわっていくと、先ほどまで「見えないありよう」で在った背面が、あるとき不意に「見えるありよう」を呈するようになって、以後、斜めを向いているその姿を少しずつ、正面を向いた姿に近づけていくことになる。このように、向日葵のまわりを一周し終わるまでの間、向日葵の姿は刻一刻と変化する。向日葵に近寄っていった先ほどと同じく、こうして一周している間にも私は、この向日葵の姿を複数目の当たりにすることになる。で、今度の場合も、それら複数の姿はたがいにすべて異なっているということになるわけである。


 ここで確認しているのは、向日葵の姿が、私の身体の移動につれ、変わっていくということである。向日葵に近づき始めてから、更にはその周囲をひとまわりし終わるまでの間、私は一瞬一瞬、向日葵の姿がどのように在るかを捉えている。そしてそのように向日葵の姿が「どのように在るか」を捉えているということは、向日葵の姿がそのつど、私の身体といった他のものと共に在るにあたってどのようにあるかを捉えているということだという、このことを今、確認しているのである*1。「どのように在るか」を捉えるとは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を捉えることだというこのことは、私の身体の他、日の光や風についても言える。私が向日葵に向かって歩き出してから、その周囲をひとまわりし終わるまでの間に、日の光が照ったり陰ったりしていたとしよう。するとその光の加減に合わせて、あるときの向日葵は陰のある姿を呈し、またあるときはくっきりした姿を見せ、また別のときは光を受けた部分が真っ白になった姿を呈していたことになる。風の場合も同様で、風が吹いていれば、傾いてこきざみに揺れていただろうし、風がやめばまた直立しなおしていただろう。向日葵の姿が一瞬一瞬「どのように在るか」を捉えようとして、向日葵の姿がそのつど、日の光や風といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」を私は捉えることになっていただろうということなのである*2

つづく


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*1:2018年9月11日にこの一文を、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。当初はこう書いていました。修正箇所は下記のゴシック体の部分です。

そしてそのように向日葵の姿が「どのように在るか」を捉えているということは、向日葵の姿がそのつど、私の身体といった他のものと共にどのようにあるかを捉えているということだという、このことを今、確認しているのである。

*2:2018年9月11日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。