(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

柿の木は八方美人である

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第6回


 柿の木に僕が歩みよっている場面を、ようやくみなさんに、僕におなりになったつもりでご想像いただいているところである。


 柿の木はその姿を、僕が歩みよるにつれ刻一刻と大きくし、目を閉じれば全体まるごとひとつを「見えないありよう」に、またサングラスをかければ黒っぽくする。


 すなわち柿の木は、「僕の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるとのことだった。


 さて、僕はまだゆっくりと柿の木に歩みよっている最中だけど、あ、いま、太陽が雲間にかくれた。で、それに合わせて、先ほどから刻一刻と姿を大きくしていた柿の木は、姿を黒っぽくした、といま実況しようとしたが、遅かった。あっという間に太陽が雲間から出てきて、柿の木の姿はすぐ、すこし黄色がかった姿に変わってしまった、ともうお知らせしなくちゃならない。


 そう、柿の木は、「太陽や雲と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも一瞬ごとに答えると言える。


 おっと、みなさんご覧になれるだろうか、柿の木のむこうから、自転車にまたがった中学生たちのごいっこうがこちらにやって来たのが。おそろいのジャージを着ているところからして部活動中? おお、僕は立ちどまる。中学生たちの一団は、僕のまえを颯爽と走り抜ける。その間、柿の木は中学生たちごいっこうのカゲにかくれ、僕のほうを向いた面の、上ッ面を、それまで呈していた「見えるありよう」から「見えないありよう」に変えてじっと待つ。


 柿の木は、「他人の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも一瞬ごとに答えるとつけ足せる。


 僕は柿の木に背を向け、青春のあまずっぱい香りを残して通りすぎた中学生たちごいっこうを見おくる。とそんなとき、不意にガサガサという音が聞こえてきた。すると、柿の木は僕の背後でその「見えないありよう」とでも言うべき姿をもうゆすっている。


 柿の木は、「音と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも一瞬ごとに答えると言えよう。


 以上、柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える、というわけである。


 でも、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるのは、何もこの柿の木に限ったことじゃない。


 それこそいまみなさんにご想像いただいているように、目を閉開したり、サングラスをかけたり、途中、中学生ごいっこうが通りすぎるのを待ったり、柿の木が身をゆする音に聞き耳を立てたりしながら、柿の木に歩みよっていくというのは、まさに僕の身体にとって、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えることに他ならないんじゃない?


 ここまで、柿の木と僕の身体のふたつしか考察しなかったけど、もうつぎのように申し上げても、誰でも知っているごくごく当たりまえのことをホザいているにすぎないとみなさん、お認めくださるんじゃないだろうか。


 すなわち、存在(音、匂い、味、身体感覚、らも含む)他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものである、と*1

〔補足〕

 いま、存在は「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものである、と申し上げたが、哲学用語をもちいてこうも申せるか。

 存在は対他的である。

つづく


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第1回


第2回


第3回


第4回


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*1:2018年7月3日と同年10月24日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。