(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

科学は存在を別ものにすり替える

*存在のすり替えにともなう関係のつなぎ替え第1回

 科学は存在を、存在しているとおりに捉えるものではありません。読み替えて捉えるものです。科学的発想を習得するためには、存在のこの読み替えを理解する必要があるのではないでしょうか。


 科学が存在をどう読み替えるのか、順を追って再確認します。


 存在は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものです。


 私の前方にある郵便ポストは、私が近寄っていくと、その姿を刻一刻と大きくします。郵便ポストの実寸を大きくすると言っているのではありません。大きくなるのはあくまで姿です。もし私が郵便ポスト目がけて歩いているのに、郵便ポストの姿が不変だというようなことになれば、そのとき郵便ポストは刻一刻と小さくなっていることになります。とんでもないことです。


 今言いましたように、私が郵便ポストに近づいていくと、ポストの姿は刻一刻と大きくなります。日が陰ればそのポストの姿はうす黒くなりますし、また日が差せば白っぽい明るい姿になります。強い風が吹けば、郵便ポスト周辺の雑草はちぎれるようにゆれますが、ポストは微動だにせず、そうして雑草などにはない頑強を姿を呈することになります。私は終始こんなふうに、私の身体や日の光や風といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているポストの姿を目の当たりにすることになるのです。


 このように存在は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものですけれども、科学は存在をこうしたものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えます。それは結論から先に言いますと、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、外見(姿)、匂い触覚像(堅さややわらかさや熱さや冷たさなど)をとり去るということです(この除去作業についてはデカルトの蜜蝋が有名です。『省察*1に書いてあります)。そうしてとり去ったあとに残るものをこそ、本当の存在とすることです。


 郵便ポストに近寄っていく私がそのつど目の当たりにすることになる郵便ポストの姿からこのように、外見、音、匂い、味(ここで味をあげるのはおかしいですが)、触感像をとり除いたあとに残るのは、その位置(ポストがある位置のこと)を占めている何か、とでも言うべきものです。言ってみれば、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものです。それは、私が近寄っていっても遠ざかることにしても、目をつぶっていても開いていても、日が陰っていても逆に日が照っていても、まったく何ら変わらない何かです(風が吹いていないと仮定したうえでの話です)。


 では、私がいま机に着いているとして、そのとき私の身体のいちばん近くにくるこの机表面の一辺をもちいて、今から実際に存在をこのように読み替えてみましょう。実際にそうした読み替えのすえ、存在が、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものになるのを確認してみましょう。


 今の場合、この机の一辺は横に延びる線として私に見えていることになります。しかしもしこのとき私が机の横に立って見ているのだとすれば、その一辺は手前から奧に延びる線として見えていることになります。この一辺はそのように、私の身体などの「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、そのつど答えるものです。


 ところが科学はこの一辺を、私がまぶたを開けていようが閉じていようが机の前にいようがその横に立っていようが、まったく変わることがないものと考えます。つまり、この一辺を、ただ無応答で在るだけのものと決めつけます。するとたとえばこの一辺の、横に延びる線としての姿と、手前から奧に延びる線としての姿との間に認められる違いは科学が考えるこの一辺には属さない余分なものであることになります。逆に言えば、横に延びる線としての姿と、手前から奧に延びる線としての姿との間に認められるこの違いを、両方の姿から共にとり除いたあと、その両方の姿にともに残る、たがいにそっくりなものこそ科学が考えるこの一辺だということになります。で、互いの姿の間にあるこの違いを、この一辺には属さないものとして、両方の姿から共にとり除くと、最後に両方の姿に共に残るのは何かというと(つまり科学の考えるこの一辺は何かというと)、ある長さをもった直線だということになります。


 存在から外見がとり除かれることになるわけです。


 存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替える際、科学はこの要領で、外見だけではなく、音も匂いも味も触覚像も存在からとり除くことになります(その結果、音は空気や物体の振動のことになり、匂いは匂い分子のこと、味は味物質のことになります)。こうして存在は、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものになるのです。


 存在のこうした読み替えを私は個人的に客観化*2と呼び、外見、音、匂い、味、触覚像がとり除かれてできた存在を客観存在と呼んでいますが、ハイデガーはこれを『存在と時間*3で客体存在と呼んでいます(彼はその本で、存在を客体存在として説明する従来の見方をひっくりかえそうとしています)。また古くはこの存在を、デカルト(科学の始祖)は、延長(extensio:幅、高さ、奥行きへの広がりのこと)と呼び、イギリス経験論者の祖、ジョン・ロック一次性質呼んでいます。デカルトジョン・ロックは存在とはまさに、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもののことだと考えていました。科学は彼らから「客観化」を受け継いだわけです。そして今現在この「客観存在」を、元素または元素の組み合わさったものとして説明しているのです*4

つづく


このシリーズは全2回でお送りします。

 

*1:

省察 (ちくま学芸文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

 

*2:後日「存在の客観化」と呼ぶようになりました。2018年9月17日記す。

*3:

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

*4:2018年9月17日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。