(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

ハイデガー『形而上学入門』/4.第三章 

3のつづき

 捜査本部はながらく存在の行方を捜査している。けれどもこのかた捜査にはまったく何の進展も見られず、ついにこのたび捜査責任者のいれかえが行われることになった。新たに捜査本部のトップに着くことになったのはハイデガーである。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

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 彼は着任するとさっそく捜査員に、「ある」という言葉のもとへ家宅捜索を命じた。ハイデガーの手にかかれば、長年膠着していた事態がかくも早急に動きはじめるのかといきなり周囲の期待も高まった。しかし、捜査員が踏みこんでみると言葉のなかはモヌケの殻で、いくら探してみても存在に関する手がかりすら見つけることはできないのだった。


 事態はふたたび膠着状態におちいっている。


 それでもハイデガーは捜査の方向性をかえる必要を感じてはいない。存在への手がかりはやはり言葉のなかにあると彼は私たちに語った。今後は存在という言葉周辺への聞き込みに力をいれていく方針だという。


 いっぽうハイデガーの捜査方法については、初動の段階ですでに根本的な問題点がひそかに指摘されていた。今回、記者は匿名を条件に、ある捜査関係者の話を聞くことができた。

 テーブルのうえにある複数のオレンジはすべてたがいに違っています。大きさ、色、形、におい、味などがたがいに異なります。しかし私たちはそれらをたがいに同じオレンジと認めることができます。


 いまこのオレンジひとひとつをオレンジA、オレンジB、オレンジC……オレンジNといったように名づけますと、オレンジAとオレンジBとを同じと認めるというのは、オレンジBとの間に違いをもったオレンジA丸々ひとつと、オレンジAとの間に違いをもったオレンジB丸々ひとつとを、たがいに同じとすることだと言えます。オレンジBとの間にある違いを除きさったあとのオレンジAと、オレンジAとの間にある違いを除きさったあとのオレンジBとを、同じとすることではありません。同じとは「たがいに全く違わないこと」、つまりそっくりを意味しないのです。同じとは、違いのあるもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて、たがいに同じとすることです。似ているとすることなのです。


 存在を見たといういろいろな証言が捜査本部には寄せられています。そうした証言で語られている存在をそれぞれ、存在A、存在B、存在C……存在Nといった具合に呼ぶとすれば、それら、存在A、存在B、存在C、存在D……存在Nそれぞれの間にはすべて違いがあるということになります。しかし、存在A、存在B、存在C、存在D……存在Nはすべてたがいに存在として同じです。オレンジA、オレンジB、オレンジC……オレンジNがオレンジとしてたがいに同じなのと一緒です。存在Bとの間の違いを除きさったあとの存在Aと、存在Aとの間の違いを除きさったあとの存在Bとが、存在として同じであると言っているのではありません。存在として同じとは「たがいにまったく違わないこと」、いわゆる「そっくり」のことではない。同じとは何度も言うように、たがいの間の違いを丸々含めて同じとすること、すなわち、「似ている」ということなのです。


 ところがハイデガーは、同じとは「たがいにまったく違いがないこと」だとする従来の解し方にもとづいて、存在を捜索することを命じました。存在を目撃したという数々の証言が寄せられ、捜査本部は、存在A、存在B、存在C、存在D……存在Nなど数々の存在についての情報をすでにつかんでいます。にもかかわらず捜査本部は存在を、存在A、存在B、存在C、存在D……存在Nといった具体的な存在同士のすべてに認められる「互いにまったく違いがないもの」として捜索するよう捜査員に指示することになりました。こうして存在同士の間にみとめられる違いをすべて、存在とは関係がないとして見逃していくことになった結果、最後にはめぼしいものは何ひとつ残っていないということになったのです。


 私たちははるか以前にこれとよく似たことを、徳行方不明事件でも経験したはずです。そのとき捜査責任者ソクラテスは、老人の徳、青年の徳、婦人の徳などを目の当たりにしていながらも、徳を、それらに共通して含まれている、「たがいにまったく違いがないもの」として探すよう命じ、とうとう徳を見失うことになりました。見つかるはずのないものとして探していれば、目の前に探しているものはあるのに、見つからなくなるのも当然です。


 この捜査関係者は家族写真を見ながら、最後に「私たちは過去の失敗からまだ十分に学んでいないのかもしれません」とつけ加えた。


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