(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

進化論とはこういうものだとずばり言ってみるよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第22回


 ドーキンス進化論を検証することを通して、進化論に触れてきました。そんな俺たちにはいまや進化論を、「生き残るのは誰か」という問いを立て、それに「他を押しのける者」と答えるものだと言えるように思われます。


 俺は何を言っているのでしょうか。お聞きください。


 ドーキンス進化論は、この世を遺伝子同士の「押しのけ合い」の世界と結論づけます。郡淘汰論者は、この世を、生物種(集団)同士の「押しのけ合い」の世界と見ます。またダーウィン進化論やその思想に強い共感を覚えるいくたりかの現代人たちはこの世を、生物個体同士が「押しのけ合う」世界とします。以上から、進化論をひと言で、こうまとめることができるのではないでしょうか。進化論とは、「誰が生き残るのか」という問いを立て、それに「他を押しのける者」と答えるものである、と。その「他を押しのける者」とは、ドーキンス進化論では、「ライバル遺伝子を押しのける遺伝子」ですし、郡淘汰説では、「他の生物種を押しのける生物種」、ダーウィン進化論やその思想に強い共感を覚えるいくたりかの現代人たちの考えでは、「他者を押しのける生物個体」です。「誰が生き残るのか」という問いにたいして進化論が答えるこの「他を押しのける者」とは、もっと短い言葉で、優れた者とか、適者とか、強者とも表現されます。 俺たちはこんなふうに言われるのをよく聞きもします。「優れたもの(適者)が生き残り、劣った者(適応できない者)が淘汰される」と、あるいは「弱肉強食」と。


 しかし、なんども申しますように、俺たちはドーキンス進化論を検証することを通して、ふたつ学びました。進化論は、利益と不利益をつねに表裏一体とする見方から出発し、生きるために利益を得る手だては、利己的行為(他を押しのけること)しかないとしますが、それは誤解でした。利他的行為を受けたり(尽くされたり)、「利益の与え合い」をしたり(持ちつ持たれつしたり)、「単独で利益を得」たりして利益を得ることもとうぜん考えられました。また、自然淘汰を生物個体の死にやすさの話とする進化論の見方も不適切だと学びもしました。実際のところ、自然淘汰とは、跡継ぎがつぎつぎと続いていくかどうかの話でした。こうして学んだふたつから俺たちはこう言わなくてはなりません。進化論は、「誰が生き残るのか」という問いを立て、「他を押しのける者」と答えるが、進化論が立てるべき問いはそれではないし、「誰が生き残るのか」という問いにたいするその答えかたも疑わしい、と。


 いまも言いましたように、自然淘汰とは、生物個体が死にやすいかどうかの話ではなく、跡継ぎがつぎつぎと続いていくかどうかの話です。したがって、進化論が立てるべき問いは、「誰が生き残るのか」ではなく、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か(どんなグループか)」ではないでしょうか。「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か(どんなグループか)」という問いで訊くグループは、家族である場合もあれば、親族という集団である場合も、地域一帯の或る集団である場合もあるでしょう。「跡継ぎがつぎつぎと続くのは何か」という問いは、人間の場合で言えば、家族、親族、人種、人類、ほ乳類といったいろんなグループについての跡継ぎ問題を尋ねるものです。つまり、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か」という問いを立てると、いろんなグループそれぞれにつき、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か」を考えることになります。


 では、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か」というこの問いにどう答えればいいのでしょうか。率直に申しますと、言い出しておいて誠に申し訳ないかぎりですが、知識も洞察力もない俺にはこの問いにどう答えればいいのかは、まったくわかりません。俺なんかには、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくのは何か」というこの問いには、ただ「跡継ぎがつぎつぎと続いていくもの」と言うのが精一杯です。が、ひとつ言わせていただくなら、この問いは、これからずっと問い続けていくべき問いであって、そうして問い続けることこそがこの問いにその時々で答えることなのかもしれません*1

つづく


前回(第21回)の記事はこちら。


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*1:2018年8月10日付記。利己的行為という言葉にかかっていた〈〉と、利他的行為という言葉にかかっていた《》を、とり外しました。