(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

みなさんを世界のなかに入れない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第3回


 科学は「絵の存在否定」によって、「身体の感覚部分」を身体から除外するだけではなく、世界からも除外する。


 みなさんがふだん世界と思っておられるもののうちには、みなさんの「身体の物的部分」は当然のこと、みなさんがたの「身体の感覚部分」も含まれる。みなさんがたの身体の感覚部分は世界の一部である。しかし、科学が世界とするもののうちには、みなさんがたの「身体の感覚部分」は含まれない。科学は、世界のうちからみなさんがたの「身体の感覚部分」を除外し、世界の外に在るものとする。


 つぎに確認するのは、科学が世界からみなさんがたの「身体の感覚部分」をこのように除外し、世界の外にあるものとする経緯である。ここでも「ひとつの絵に共に参加しているというつながりを切断するところに事の発端があると見て、考察を進めていく。


 先ほど絵という言葉を身体にまで拡大解釈して用いた。まずその拡大解釈を最大限まで押しすすめることにする。


 私たちは映画の一場面を思い出して「いい絵だった」と言ったり、或る風景を目の当たりにして「絵になる」と言ったりする。ひとから場の状況を聞いて、まざまざと「絵が思い浮かぶ」と表現したりもする。絵という言葉はこのように、光景や状況を意味することがある。二次元だけではなく、三次元にも用いられる。それを利用して、或る一瞬に私が体験している世界のありよう全体(そこにはその一瞬に私が体験しているすべてが含まれる。物の姿、空いている場所の姿、音、匂い、味、自分の「身体の感覚部分」や「身体の物的部分」、私が想像している像、私が捉えているかぎりでの、他人たちの身体のありようや、彼らの体験内容など) をひとつの絵と見、それを以後、世界絵と呼ぶことにする(世界絵は、アニメーションでの一枚のセル画や、ぱらぱらマンガでの一頁に相当する)。


 さて、このように絵という言葉を拡大解釈すると、私が前方の光景をいま目の当たりにしているのなら、その光景と、いまこの一瞬の私の身体の感覚部分」とが、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言えるようになる。遠方のスタジアムであがっている歓声がいま聞こえているのなら、その歓声(音)と、いまこの瞬間の私の「身体の感覚部分」とが、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言えるように、 また、キッチンに置いてあるレモンの匂いがいまするのなら、その匂いと、いまこの瞬間の私の「身体の感覚部分」とが「ひとつの世界絵に共に参加している」と、 いまコーヒーを味わっているのなら、口のなかに広がっているその味と、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」とが「ひとつの世界絵に共に参加している」と、 いま椅子に座っているのなら、臀部の下にありありと感じとっている椅子の「見えないありよう」とでも言うべき姿と、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」とが、「ひとつの世界絵に共に参加している」と、それぞれ言えるようになる。


 では、ここで本題である。私がいま目の当たりにしている前方の光景と、いまこの一瞬の私の身体の感覚部分」とを、それぞれが現に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士とは認めず、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であると考えれば、と、どうなるだろうか。「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、前方一帯と、私の「身体の感覚部分」とを足し合わせても、私が前方の光景を目の当たりにしているという世界絵は出てこない。 私が前方の光景を目の当たりにしているという世界絵は、一転、存在していないことになる。「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、前方一帯と私の身体の感覚部分とがただばらばらに存在しているだけということになる。


 まさにそこで科学は、ばらばらに存在しているだけのそれらふたつのうちのいっぽうである、前方一帯(厳密には周囲一帯)を世界とし、そうすることで自動的に、もうかたほうの「身体の感覚部分」を、世界から除外するわけである。先に科学が、みなさんがたの「身体の感覚部分」を、身体から除外し、正体不明な意識なるものとするのを見たけれども、さらにその正体不明な意識を科学は世界からも除外し、世界をこうして意識の外にあるもの、すなわち、外界とするという次第である(以後、科学が考える世界については外界と呼んでいく)*1

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


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*1:2017年5月21日に一部加筆修正しました。