(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学が身体を機械とするに至る経緯を発端から確認する

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第1回*1


 ここまで*2、主につぎの2点を確認してきました。

  1. 「身体の物的部分」で、物質的出来事が、「身体の感覚部分の関与のもと起こること(「身体の物的部分」は機械ではないこと)
  2. そのことをみなさん実によくご存じであること


 では、つぎに進みます。


 みなさんどなたも、「身体の物的部分」で、物質的出来事が、「身体の感覚部分の関与のもと起こるのを実によくご存じであるにもかかわらず、なぜ科学はわざわざ、「身体の物的部分」での物質的出来事を、「身体の感覚部分の関与無く起こるものとし、「身体の物的部分」を時計や掃除機といった機械と同一視するのでしょうか。


 まったくこれは不思議なことではないでしょうか。


 これからこのchapter2で見ていくのは、科学が「身体の物的部分」での物質的出来事を、「身体の感覚部分の関与無く起こるとするに至る経緯です。


 いまこの瞬間、俺が松の木を目の当たりにしているとお考えください。その瞬間に俺が目の当たりにしている松の木の姿と、その瞬間の俺の身体とは、占めている位置は離れています。松の木の姿は俺の前方数十メートルのところにあります。が、離れた場所にあるこれらふたつのあいだには直接の関係があります。


 その直接の関係とは何か。


 それは、ひとつの絵に共に参加している、という関係です*3


 いま、かなり先走って申しましたが、さらに先走って申しておきますと(あとできっちり確認します)、松の木と俺の身体といった、離れた場所にあるもの同士のあいだにも認められるこの「ひとつの絵に共に参加している」という直接の関係を、科学はこの世に一切認めません。松の木と俺の身体のあいだに直接の関係があるとすれば、それは、一方から放出されたなるものが他方に作用することのみであると科学はします。このように、離れた場所にあるもの同士のあいだにある直接の関係を力なるものの作用以外には認めないものこそ、西欧で生まれた科学という独特な世界観ではないかとすら俺は考えます(このことがこれから明らかになります)。


ひとつの絵に共に参加している」というこの直接の関係を世界から一掃しますと、身体のうちの一部分であるはずの「身体の感覚部分一転、心のなかにある、「身体の物的部分についての情報と考えられることになるというのがこれから見ていきますストオリイであると、ここで予告させておいていただきます。


 このように「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体の物的部分についての情報と解しますと、おのずと「身体の物的部分」を機械と考えることになるというわけですが、そのことも含め、以後、順を追って確認していきます。

つづく


次回は、1月18日(水)朝7:00にお目にかかります。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

*1:以前のタイトルは「科学の身体研究からすっぽりぬけ落ちている大事なものchapter2」です。

*2:2018年8月1日付記。「科学の身体研究からすっぽりぬけ落ちている大事なものpart1」  タイトルを「身体が機械じゃないのは明らかであるが」に改めています  をとおしてここまで、という意味です。

*3:2018年8月1日付記。現在の俺ならここは「絵」なんて言葉はもち出さず、「それは、俺のしている体験に共に参加している、という関係です」と申します。以下このシリーズをとおして同様です。