(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

自然淘汰はお家騒動?

*コバエぶんぶん自然淘汰(下)

 以来、自然淘汰と聞くと、俺が念頭にサッ、ササッと置くのはこの鈍感なコバエである。


 ひょっとすると進化論者のなかには、こうしたコバエを見て、こうお考えになるかたもおいでかもしれない。「こんなに鈍感で死ぬ確率が高いとなると、このコバエがすぐにこの世から消え去ってもおかしくはなかろう。にもかかわらず、彼らが自然淘汰されて消え去ってしまっていないのはなぜであろうか」。


 かたや俺は僭越ながらこう思う。この鈍感な死にやすいコバエはまさに自然淘汰とはなんぞやということを考えるのにカッコウの存在である、と。自然淘汰されるかされないかとは、あくまで跡継ぎがつぎつぎと続いていくかどうかの問題である。個体が死にやすいとか、日常生活をおくるのに不都合な点をもっているとかいうことだけをもって、自然淘汰されても当然であると言うのは少し論点が違っていやしないだろうか。死にやすさや、日常生活をおくるうえでの不都合な点やが、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくこと」の支障になるかならないかを考えてはじめて、自然淘汰にかかるかかからないかが(少しは)見えてくるのではないだろうか。


 だって、そうじゃない?


 個体がとても死ににくくても、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくこと」にそれが支障となるのなら、その集団が自然淘汰にかかる可能性は増すように思われる(現在、高齢者が政策的に優遇されすぎていて、それがこれからの世代を圧迫していると指摘されておられるかたは暗にこういう自然淘汰の事情に触れておいでなのではないかと思うことが、おおげさながら俺にはある。そしてそのときの俺は、深沢七郎さんの『楢山節考』という小説を思い出している。姥捨山のお話である)。

楢山節考 (新潮文庫)

楢山節考 (新潮文庫)

 


 その反対に、件のコバエはとても死にやすかったけれども、かつて俺のアパートメントでなんども壊滅状態からV字回復をとげた。個体が、自分の子をつくる前に死ぬのであれば、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくこと」の支障ともなるだろうが、子を作り、その子が独り立ちしたあとに死ぬのであれば、「跡継ぎがつぎつぎと続いていくこと」に支障がでない可能性も出てくるし、それどころか、いまチラッと触れたように、なんと言うか、その、あれである……。


 個体が死にやすいとか、生きるのに不都合な点を持っているとかいうことを進化論的に考えるというなら、「跡継ぎがつぎつぎと続いていく」のにそれが支障となるか役に立つかを考えるべきなのではないかと思う俺は、また的外れな意味のないことを言っている?

(了)


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