(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

忘れられていた行為が遅れてやってきたよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第11回


 以上、利他的行為は淘汰されてすでに無く、今現在、利己的行為しか存在しないにちがいないとする進化論的理論」を、群淘汰論者やドーキンスが、生物個体に言うのを断念し、その代わりに、生物集団あるいは遺伝子に当てはめなおして、生物個体による利己的行為と利他的行為とをともに、生物集団あるいは遺伝子による利己的行為に読み替える次第を見てきました。


 しかしドーキンスが、遺伝子による利己的行為にへと読み替えるのは、これらだけではありません。もうひとつ、彼が遺伝子による利己的行為に読み替えるものが残っています。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 互恵的利他主義と彼が呼ぶものがそれです。他に利益を与え、他から利益を与えられる関係のことです。以後この「他に利益を与え、他から利益を与えられる」関係を、利益の与えあいと呼んで、これをドーキンスがどのように読み替えるか確認します。


 「利益の与えあい」はここではじめて出てきました(前のほうで二度ほどそれとなく触れてはいますが)。どんな関係かまず見ておきます。


 「利益の与えあい」は社会にひろく、かつその隅々にまで見うけられます。


 「利益の与えあい」の例として売買があげられます。売買では買い手は売り主(他)に、金銭という利益を与え、売り主(他)から商品という利益を与えられます。労働も「利益の与え合い」の例にあげられます。労働では従業員は雇い主(他)に労務という利益を与え、雇い主(他)から金銭という利益を与えられます。労働はそれこそ、社会のいろんなところで目につきます。また、取引関係がある会社同士のあいだにも、「他に利益を与え、他から利益を与えられる」こうした関係はみとめられます。「利益の与えあい」はまさに社会全体に網の目のようにひろがっています。


「他に利益を与え、他から利益を与えられる」この関係は、思いもよらないところにもみとめられます。食べる、食べられるものの間にすらこの関係はみとめられると言うと、みなさんはどう思われるでしょうか。


 飼育や養殖を念頭に置いてみてください(ドーキンスが『利己的な遺伝子』で「利益の与えあい」の例として飼育をだすのをこのあと俺たちは見ることになります)。


 人間は家畜や魚(他)にエサという利益を与え、家畜や魚(他)という未来の食糧(利益)を得ます。食べる、食べられるものの間には、利益と不利益が表裏一体になっている関係しかないように一見、思われますけれども、少なくとも飼育されたり養殖されたりしているものとの間柄については、利益と不利益が表裏一体になっている関係と見るだけでは不十分なのではないでしょうか。


 極端なことを言えば、「他に利益を与え、他から利益を与えられる」この関係は、肉食獣と、その肉食獣が食の対象にしている動物(被対象動物と呼ぶことにします)とのあいだにもみとめられるような気がします。肉食獣はずっと、被対象動物を追いかけているのではなく、休息もします。そのあいだに、鬼の居ぬ間に洗濯といった感じで、被対象動物も休息できるし、草をはむこともできるし、性交したり子供を産んだりすることすら可能かもしれません。で、そうして「鬼の居ぬ間に」被対象動物が繁殖に役立つ時間を過ごせるとなると、肉食獣のほうも自分の未来の食事が担保されることになって都合がよくなります。肉食獣が被対象動物(他)に「鬼の居ぬ間」という利益を与え、被対象動物(他)から未来の食事という利益を与えられていると考えることもできるのではないでしょうか。強引な考え方だとおっしゃるかもしれませんが*1

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月28日に、利己的行為という言葉にかけていた〈〉と、利他的行為という言葉にかけていた《》とを削除しました。