*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第12回
しかし、このように世界に広く、かつその隅々にまでみとめられる「利益の与えあい」もまた、ドーキンスにとっては、この世に存在するはずのないものにすぎません。
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 単行本
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利益と不利益をコインの表裏のようにつねに表裏一体になっていると仮定する*1と、世界がどう見えてくるのか、俺たちは順をおって確認してきました。しかし、利益と不利益をつねに表裏一体になっているとするその仮定は、この世に存在するすべての利益と不利益のありようを網羅したものではありません。
利益と不利益をつねに表裏一体であると仮定するとは、「利益を得るとはかならず他へ不利益を与えることであり、他に利益を与えるとは、かならず自分が不利益をこうむること」だと考えることでした。もしそのように「他に利益を与えるとは、かならず自分が不利益をこうむること」だとすると、他に利益を与えても、自分は不利益をこうむるだけで、他から利益を与えられることはない(「他に利益を与え、他から利益を与えられる」ことはない)ということになります。
つまり、利益と不利益をつねに表裏一体であると仮定すると、「利益の与えあい」はこの世に存在しえないことになります。ドーキンスは事のはじめに、利益と不利益をつねに表裏一体と見なすことで、この世には「利益の与えあい」は存在しえないと決めつけているわけです。
もし彼が「利益の与え合い」をこの世に存在するものとして当初からみとめていたとすれば、生物個体による行為として、利己的行為、利他的行為、「利益の与え合い」の三つを最初に想定し、生きるための利益を得るのに役立つ行為として、利己的行為と利益の与え合いのふたつをあげ、いっぽう残りの利他的行為を、生きるのに足引っぱりにしかならないものとしたことでしょう。そして、生きるのに足引っぱりにしかならない利他的行為は自然淘汰されてすでに無く、今現在は、生きるための利益を得るのに役立つ利己的行為と利益の与え合いしかないにちがいないとする「進化論的理論」を立てていたことでしょう。しかし彼が、自然淘汰の結果、今現在この世に残っていると考えた生物個体の行為は、利己的行為だけでした。
このようにドーキンスは生物個体による「利益の与え合い」の存在をもともと想定していません。が、さすがに、社会全体に網の目のようにひろがっているこの「利益の与えあい」の存在を無視したままではいられなくなるときが彼にもやってきます。で、現に彼は、生物個体による「利益の与えあい」についても、さきに見た、生物個体による利他的行為に関してと同じように、理論と現実の背反にひき裂かれることになりました。彼の理論でいくと、利益と不利益はコインの表裏のようにつねに表裏一体であって、「利益の与えあい」などこの世に存在するはずはありません。ところが「利益の与えあい」は現にがんと存在していて、無視できません。そこで、彼はここでも、自分の理論に現実をあわせることにします。彼はこう解します。
利益と不利益はつねに表裏一体であって、やはり「利益の与えあい」などこの世に存在するはずはない。にもかかわらず、じっさいにそれが存在しているのは、生物に関して唯一存在が認められる、遺伝子による利己的行為であるからにちがいない、と。
そう考えた彼は、生物個体による利他的行為を、遺伝子による利己的行為に読み替えたように、「利益の与えあい」をも、遺伝子による利己的行為に読み替えます。
そこまでしてドーキンスはこの世を、遺伝子による利己的行為一色で完全にぬりつぶそうとします*2。
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序
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第4回
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