(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ドーキンスが利他を利己に読み替えるよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第7回


 このように群淘汰論を批判するとはいえ、ドーキンスも読み替えをすることにかわりはありません。彼は、生物個体による利己的行為と利他的行為をともに、遺伝子Xによる利己的行為(遺伝子Xによるライバル遺伝子の「押しのけ」)に読み替えます。こういう考え方です。


 生物個体Xがいま利益を得、生物個体Yに不利益を与えるとする(生物個体による利己的行為)。生物個体Xの身体のなかには遺伝子Xがある。この遺伝子Xが、生物個体Xの身体をあやつって利益を得させ、生物個体Yに不利益を与えさせる。たとえば、生物個体Xの身体にエサを見つけさせて食べさせる。すると、エサを食べた身体のなかにある遺伝子Xも利益を得、いっぽうエサとして食べられた生物個体Yの身体のなかにあるライバル遺伝子は不利益をこうむることになる。


 エサを食べるという、生物個体による利己的行為はこのように、遺伝子Xが利益を得、ライバル遺伝子に不利益を与えるという、遺伝子Xによる利己的行為であって、遺伝子Xが存続するのに役立つものである。


 さて、ドーキンスが生物個体による利他的行為を読み替えるつぎに大注目です。


 遺伝子Xを身体のなかにもつ生物個体Xには子(生物個体Y)があって、この生物個体Xがいま生物個体Yに利益を与え、みずからは不利益をこうむるとする(生物個体による利他的行為)。生物個体X(親)の身体のなかにある遺伝子Xのコピーが、生物個体Y(子)の身体のなかにはある。遺伝子Xが生物個体X(親)の身体をあやつって、生物個体Y(子)に利益を与えさせると、たとえば遺伝子Xが生物個体X(親)の身体をあやつって、敵に襲われそうになっている生物個体Y(子)を守らせると、生物個体X(親)の身体は不利益をこうむり、その身体のなかの遺伝子Xも不利益をこうむることになるが、生物個体Y(子)の身体はその反面、利益を与えられ、その身体のなかにある遺伝子Xのコピーも利益を得ることになる。


 子を敵から守るといった、生物個体による利他的行為はじつのところこのように、遺伝子Xが遺伝子X(のコピー)に利益を与え、ライバル遺伝子に不利益を与えるという、遺伝子Xによる利己的行為である。これもまた遺伝子X(そのコピーも含む)の存続に役立つものである。したがって、生物個体による利他的行為は淘汰されることなく、今現在も存在するのである


 ドーキンスはこのように、生物個体による利己的行為と利他的行為をともに、遺伝子による利己的行為に読み替えます。こうした読み替えをしてみせるのが、繰り返し申しますように、まさに『利己的な遺伝子』という本の目的です。

この本で私は、遺伝子の利己性と私がよんでいる基本法則によって、個体の利己主義と個体の利他主義がいかに説明されるかを示そうと思う(リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子〈増補新装版〉』日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊國屋書店、2006年、10頁)。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 結果、ドーキンスにはこの世がこう見えます。すなわち、ライバル遺伝子を「押しのけよう」とする複数の遺伝子同士が利益争奪戦をくりひろげ、ライバル遺伝子を「押しのけて」利益を得たものが生き残り、ライバル遺伝子に「押しのけられた」ものが淘汰されて、消え去っていく世界である、と。この世は遺伝子同士が「押しのけあう世界」である、と。


 遺伝子同士によるこうした「押しのけ合い」が、ドーキンスの言う生存競争です。


 群淘汰論者はこの世界を生物集団による利己的行為一色でぬりつぶしますが、ドーキンスはこのように世界を、遺伝子による利己的行為一色でぬりつぶします*1

つづく


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月19日に、利己的行為という言葉にかぶせていた〈〉と、利他的行為という言葉にかぶせていた《》を削除しました。