(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

終わりにさしかかってきたよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第20回


 ここまで、ドーキンスの進化論的世界観を、利益と不利益がどのように見られているかという点に着目して見てきました。 生物個体には、「利益の与えあい」も利他的行為も無く、ただ利己的行為のみが存在しているだけだとする理論(俺たちは「進化論的理論」と呼んできました)を進化論は作ったものの、まわりをよく見渡してみると、「利益の与えあい」も利他的行為も厳としてこの世に存在しているのが目につきます。そこで、ドーキンスは、「利益の与えあい」も利他的行為も無く、ただ利己的行為のみ存在するとするこの「進化論的理論」を、生物個体について言うのは断念し、遺伝子に当てはめて死守しました。そしてこの世を、遺伝子同士による押しのけ合いの世界」と結論づけました。


 しかし、「利益の与え合い」も利他的行為もなく、ただ利己的行為あるのみとする「進化論的理論」を形成するにいたる過程には、問題のある箇所が少なくともふたつありました。


 ドーキンスは事のはじめに利益と不利益をつねに表裏一体と決めつけ、生物個体には利益の与えあいなどこの世に存在するはずはないとしていましたが、それは単なる思いこみにすぎませんでした。


 また、生物個体による利他的行為はすでに自然淘汰されて消え去っているはずだとする考えかたも誤解にもとづいていました。自然淘汰とは、生物個体が死にやすくなるかどうかの話ではなく、跡継ぎがつぎつぎと続いていくかどうかの話でした。「利益の与え合い」も利他的行為もなく、ただ利己的行為あるのみとする「進化論的理論」を作ることは許されないように思われます。


 ドーキンスの『利己的な遺伝子』を翻訳された故・日高さんはあとがきで、本の要約をしてくださっています。読んで確かめておきます。

 動物にみられる一見「道徳的」な行動  たとえば同種の仲間を殺したり傷つけたりすることを避けるとか、親が労をいとわず子を育てるとか、敵の姿に気づいた個体が自分の身にふりかかるリスクをもかえりみず警戒声を発するとか、働きアリや働きバチがひたすら女王の子孫のために働くとか  をどのように解釈するかは〔引用者注:進化論者にとって〕、長い間の問題であった。とくに、自己犠牲的な利他行動がいかにして進化しえたかということは、説明が困難だった。


(略)ところが、本書にもくわしく紹介されているように、ミツバチなどには、もはや完璧としかいいようのないような自己犠牲的な利他行動が見られる。働きバチたちは、遺伝的には雌であるにもかかわらず、自ら卵を産み育てることをせず、もっぱら妹の養育に専念するのである。しかも、ひとたび巣が危険にさらされると、働きバチたちは自らの命を投げだして巣の防衛に当る。そのような行為によって、彼女たちが通常の意味での利益(子どもをより多く残す!)を何らえていないことは明白である。


 このような利他的行動は、その種にとって当然好ましいものにちがいないが、そのようなリスクの大きい行動が、なぜ進化しえたのであろうか?


 利他的にふるまう個体は、そうでない個体より大きなリスクをおかすのであるから、死ぬ確率は高いわけである。したがって、そのような個体の遺伝子は残りにくいのではないか(リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』より、日高敏隆「訳者あとがき」526-527頁)。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 途中で割ってはいってすみません。ひと言言わせてください。むしろ逆に、利他的にふるまわない集団内の個体のほうが死ぬ確率は高いということはないのでしょうか。生まれて一人前になるまでのあいだに、利他的な他者と接触をもつ個体と、もたない個体とであれば、もたない個体のほうが、跡継ぎを作れるまで生き残る可能性は低いと考えられはしないでしょうか。 《身を削って利益を与えてくれる》他者がおらず、それこそ一人前になるまでに死んでしまう可能性は、利他的にふるまわない集団内の個体のほうが高いように思われますが、実際もしそのとおりなら、故・日高さんのわかりやすい要約にありますように、利他的な個体はふるいにかけられて消えてしまうはずだと考えることはできないのではないでしょうか。自然淘汰とは、跡つぎがつぎつぎと続いていくかどうかの話であって、個体が死にやすいかどうかの話ではないのではないでしょうか。利他的な個体はふるいにかけられて消えてしまうはずだと考えることができないのなら、「利益の与え合い」も利他的行為も無く、ただ利己的行為あるのみとする「進化論的理論」を、郡淘汰論者がやるように、生物集団に当てはめ直して死守しようとしたり、ドーキンスがやるように、遺伝子に当てはめ直して死守しようとしたりするのは不当だということになります*1


 引用の続きを読みます。

もし利他行動をさせる遺伝子というものがあるとすれば、それはたえずふるいにおされてゆくはずなので、利他行動が進化することはなさそうにみえる。けれど、現実には多くの利他行動が進化してきている。


 この矛盾を解決しようとする一つの考え方が群淘汰説である。淘汰は個体にではなく、集団に働くのだと、この説では考える。利他行動によって互いに守りあうような集団は、そうでない集団より、よく生き残ってゆくだろう。


 この説は直観的にはたいへんわかりやすいけれど、理論的につめてゆくと、多くの難点を含んでいる。個体にとっては危険で損になるが集団としては有利な行動が残ってゆくということを説明するのは、たいへんにむずかしい。


 もう一つの説は、この本でドーキンスが述べている遺伝子淘汰説である。淘汰はやはり個体、いや正しくは(とドーキンスはいう)遺伝子に働くのだというのである。この論拠はこの本でくわしく展開されているから、ここでそれを拙劣にくりかえすこともあるまい。


 この説に立って考えると、このあとがきの始めに例をあげたような「道徳的」行動や、利他的行動は、まったく別の形で理解されることになってくる。大ざっぱにいえば、すべての利他的行動は、本来利己的で自分が生き残ることだけを「考えている」遺伝子によって司令された完全に利己的な行動に他ならないのだ*2

つづく


前回(第19回)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年8月9日付記。利己的行為という言葉にかかっていた〈〉と、利他的行為という言葉にかかっていた《》とをとり外しました。

*2:注1とおなじ