(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

絵の存在を認めない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第2回


 科学の手にかかると、身体からその一部分である「身体の感覚部分」が除外され、正体不明な意識なるものとされるに至る。


 冒頭で科学は存在同士のつながりを切断してから考えると申し上げたように、科学は事のはじめに、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」のあいだの或るつながりを切断する。すると、身体からこのように「身体の感覚部分」が除外され、「身体の物的部分」だけが身体ということになる。


 どういうことか。


 まず絵をご想像いただきたい。


 抜けるような青空のもと、黄金色の稲穂が一面に広がり、さらにはその下に焦げ茶色の地面が延びている一枚の絵があるとする。奇妙な言いかたと思われるかもしれないが、この絵の、青い空、黄金色の稲穂、焦げ茶色の地面の三つは、ひとつの絵に共に参加していると言える。にもかかわらず、それら三つを、それぞれが現に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの絵に共に参加している」もの同士とは認めず、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と解するとどうなるか。


 ここが肝である。どうなるとみなさんはお考えになるだろうか。


 これら青空、黄金色の稲穂、焦げ茶色の地面の三つを、そのように「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と解すると、一転、この絵は存在していないことになる。「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、青い空、黄金色の稲穂、焦げ茶色の地面の三つを足し合わせても、この絵は出てこない。三色の対比も調和も出てこない。ただ、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、青空、黄金色の稲穂、焦げ茶色の地面の三つが、現に在る場所にばらばらに存在しているだけということになる。「ひとつの絵に共に参加している」もの同士をこのように、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と解するのはまさに、絵の存在を否定することに等しい。


 では、いまの考察を受け、今度は身体をひとつの絵と考えてみる。つまり、絵という言葉を拡大解釈し、みなさんの身体に用いてみる。 みなさんの「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とはほぼ同じ場所を占めてひとつになっている。これら「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」は、身体という「ひとつの絵に共に参加している」と言える。


 けれども、もしここで、これらふたつを、それぞれが現に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの絵に共に参加している」もの同士とは認めず、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と解すると、どうなるか。


 身体という絵は一転、存在していないことになる。「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とを足し合わせても、身体という絵は出てこない。ただ、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とが現に在る場所にばらばらに存在しているだけということになる。


 科学は、ばらばらに存在しているだけであるこれらふたつのうちの「身体の物的部分」のほうを身体とする。すると、「身体の感覚部分」は自動的に身体から除外され、正体不明の何かとなる。で、これを意識と呼ぶ。これこそが、科学の手によって、身体から「身体の感覚部分」が除外され、正体不明な意識なるものとされるに至る経緯である。


 文章冒頭で、科学は存在同士のつながりを切断してから考えると申し上げた。切断されるそのつながりはふたつある。いま確認している、存在同士のつながりの切断は、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とを、「ひとつの絵に共に参加している」もの同士から、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士へと読み替えることで、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」のあいだにある「ひとつの絵に共に参加している」というつながりを断ち切る操作である。 存在同士のこうしたつながりの切断を以後、絵の存在否定と呼ぶことにする*1

つづく


前回(第1回)の記事はこちら。


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*1:2017年5月20日に一部加筆修正しました。