(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

利己と利他を定義づけるよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第2回


 ただしそのまえに、ドーキンスが多用する二つの用語について確認しておかなければなりません。その二つとは、利他と利己という言葉です。


 ふだん俺たちが利他と呼ぶものには、大ざっぱにいえば二種類あるように思われます。ひとつはいま見たばかりの、「他に利益を与え、自分が不利益をこうむる」場合です。身銭をきって誰かにご馳走してあげるとか、車にひかれそうになっているひとを助けに入るといった例が挙げられます。


 もうひとつは、他に利益を与え、その利益よりは少ない利益を他からお返しに与えられる場合です。薄利で食事を提供するとか、価格以上のサービスを顧客に提供するといったように、相手から与えられるより大きい利益を相手に与える場合です。労働にみあう賃金を会社からもらえないのなら、いくら賃金をうけているといっても、その労働は会社にたいする利他的行為だと俺たちはいうのではないでしょうか。


 しかしドーキンスのいう利他は前者の、「他に利益を与え、自分が不利益をこうむる」場合だけを指します。他に利益を与えるさいにほんの少しでも相手から利益を与えられると、いくら相手に与える利益のほうが十分に大きいのであっても、ドーキンスはそれを利他とは認めません。会社からすこしでも給料が支払われるなら、いくらコキつかわれていても、ドーキンスの言葉づかいではその労働を利他とは呼べないことになります。彼はこのように利他という言葉を狭い意味でつかいます。


 いっぽう彼は利己という言葉を、自分が利益を得て、他に不利益を与えること、すなわち他を「押しのける」ことという意味でのみつかいます


 ドーキンスのこのふたつの用語法、「利他的行為=他に利益を与え、自分は不利益をこうむること(自分が犠牲になること)」*1と「利己的行為=自分が利益を得て、他に不利益を与えること(他を押しのけること)」*2とを確かめてみます。

ある実在(たとえば一頭のヒヒ)が自分を犠牲にして別の同様な実在の幸福を増すようにふるまったとすれば、その実在は利他的であるといわれる。利己的行動にはこれとは正反対の効果がある。「幸福」は「生存の機会」と定義される。


(略)当の行為が結果として、利他行為者とみられる者の生存の見込みを低め、同時に受益者とみられるものの生存の見込みを高めさえするならば、私はそれを利他行為と定義するのである。


(略)利他的にみえる行為とは、表面上、あたかも利他主義者の死ぬ可能性を(たとえどれほどわずかであれ)高め、同時に、受益者の生きのびる可能性を高めると思わせる行為である*3


 彼はこう書いたあと、利己的行為と利他的行為の実例をそれぞれいくつかあげています。ただしここでは引用しません。『利己的な遺伝子』でご覧になってください(前掲書7〜9頁)*4

つづく


前回(第1回)の記事はこちら。


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*1:2018年7月17日に《》を「」に変更しました。

*2:2018年7月17日に〈〉を「」に変更しました。

*3:リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子〈増補新装版〉』日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊國屋書店、2006年、6〜7ページ

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

*4:〈〉と《》をひとつずつ削除しました。2017年7月17日