(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

心一箇所のせいにはできない

*ワクチン接種後の痙攣が心因性というのは本当? 第1回


 しょう懲りもなく今回も、出来事を一箇所のせいにする科学の見解について考察します。出来事を一箇所のせいにすることはできないはずだと、オロカモノのくせにまたぞろ口はばったく申し上げていきます。恐縮です。


 子宮頸がんワクチンを接種したあと、けいれん等が起こるようになった子供たちの事例が子宮頸がんワクチンの副反応(副作用)として最近、新聞、雑誌、書籍などでよくとりあげられています。しかしそのいっぽうで、厚生労働省側はこのけいれん等を、心因性とし、ワクチンによるものではない(?)としています。

こんなにあぶない子宮頸がんワクチン 少女たちの体を守るために (合同ブックレット)

こんなにあぶない子宮頸がんワクチン 少女たちの体を守るために (合同ブックレット)

 


 そんななか先日ぐうぜん俺は、或る文章に出くわしました。それは、新聞等に見うけられるその「子宮頸がんワクチン副反応」説を非難し、厚生労働省側が示す「心因性」説にくみしているWeb記事です(上にあげた二冊のことではありません)。なぜかとても含みのある書き方をしておられて、気持ちのよわい俺はその文章を読み、どん引きしましたが、反面その中身には非常に興味をそそられました。


 厚生労働省側(と多くの医師たち)による「心因性」説を熱烈に支持しておられる筆者はその文章で、「子宮頸がんワクチン副反応」説にたいし、鋭い疑義を呈しておられました。子供たちの身の上に起こるようになったけいれん等の出来事を、ワクチンという一箇所(一箇所と書くのはおかしいかもしれませんが)せいにすることはできないのではないか、と。しかし、支持しておられる「心因性」説にたいしては、けいれん等の出来事を、心(葛藤とかストレス)一箇所のせいにできないのではないかとご指摘になることもなく、済ませておいででした。出来事を一箇所のせいにすることはできないと考える俺は、「けいれん等の出来事を、子宮頸がんワクチン一箇所のせいにできないとするなら、心という一箇所のせいにもできないと考えるのが道理ではないだろうか」と思い、非常に興味を覚えたという次第です。


 身体に起こる出来事を、心一箇所のせいにするのは道理に外れているように思われます。そもそも科学は、物理学をやっているときは、出来事を一箇所のせいにすることは決してありません(化学をやっているときにも、PV=nRTといった複数の変数からなる式をたてたりします)。出来事というものを、当の出来事に関わるすべての存在がともになす仕事とします。したがって、出来事を捉えるには、当の出来事に関わるすべての存在にできるかぎり配慮しようとするところの、状況把握が必要だとします。


 そのように物理学であつかう出来事が一箇所のせいにできないのなら、身体のなかで起こる出来事についても、一箇所のせいにできないと考えるのが道理でしょう。ところが、科学は生き物をあつかうときにはおうおうにして、出来事を一箇所のせいにします。


 たとえば、苦しんで亡くなった複数のかたの身体のなかを見てみたところガンがあったということから、科学は、彼らの身の上に起こった、苦しんで亡くなるという出来事をガンという一箇所のせいにし、いまにいたっています。また腹痛と下痢が起これば、それを身体のなかのウィルスや細菌という一箇所(一箇所という言い方はおかしいかもしれませんが)のせいにしています。そして冒頭にあげた、気のよわい俺がどん引きした文章では、子宮頸がんワクチンを接種したあと、複数の子供たちの身の上に起こるようになったけいれん等の出来事を、心という一箇所のせいにし、偽発作(Pseudo seizure:「心因性」で起こるけいれん)と見ているわけです。


 しかし論理的に考えるかぎり、どのような出来事であれ、一箇所のせいにすることはできません。子宮頸がんワクチンを接種したあと複数の子供たちの身の上に起こるようになったけいれん等の出来事を、子宮頸がんワクチン一箇所のせいにすることもできなければ(このことについては後述します)、それと同じく、心という一箇所のせいにすることもまたできません。


 なぜ出来事をそのように一箇所のせいにすることはできないのかということを、このブログでは、「原因丸々ひとつは見つからない*1」、「原因をさがし求めて*2」、「科学の出来事観と物質観の変遷*3」、「『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん*4」といった記事で細かく、かつくどくどとヘタクソな文章で書いてきました。それらをここではもう繰りかえしません。今回は別のことについて申し述べます。


 子供たちの身の上に起こるようになったこのけいれん等の出来事を「心因性」とするかたがたは、心という一箇所のせいにするのが理にかなっていると判断しておられるはずです。正規の手続きをふんで、自分たちは心という一箇所のせいにしているのだと思っておいででしょう。そこで、心という一箇所のせいにするにいたったその手続きを今回は見てみることにします。

つづく


ちなみに心がいかにして科学から生まれたかについてはこちらの記事で書きました。


このシリーズ(全4回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2015年第11作 

*2:2015年第13作

*3:2015年第15作

*4:2015年第19作