(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

利益と不利益を表裏一体とみるところから出発するよ

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第1回


 ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んでいると、かつてヒュームの本を読んでいたときのことをふと思いだす瞬間があります。また、トマス・ホッブスを連想することになるときもしばしばあります(自然状態では人間たちは「万人の万人に対する闘争」におちいることになるとホッブスは考えたと言います)。


 そしてついには、時代の異なる彼らを一本につないでいるひとつの伝統のようなものがあるような気すらしてきます。


 が、そんな伝統があるのかどうかはさておき(そんな大それたものを、愚かモノである俺が扱えるわけはありません)、ドーキンスの本、『利己的な遺伝子』に話をしぼります。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 たしかにカユイが、身体のどこがカユイのかよくわからないときがありますけれども、多くのかたがおぼえられる進化論への違和感も、これに似ているような気がします。進化論に違和感をおぼえているのはまちがいないにしても、進化論の何にひっかかっているのか自分でもはっきりしないという覚えがみなさんにはございませんか。


 その違和感をはっきりさせようというのがこの文章の目的*1です。


 俺たちの生きているこの極彩色の世界を、ドーキンスがたった一色にぬりつぶす次第と、その是非を、いまから俺たちは確認することになります。多くのひとが進化論に抱く違和感はじつのところ、この一色主義にあるのではないかと俺は思うのです。


 さあ、さっそく本題にはいりましょう。


 まずこの文章でつかう利益、不利益といったふたつの言葉を定義するところからはじめます。生きるのにプラスになることを利益生きるのにマイナスになることを不利益と言うことにします(ドーキンスの使用法にあわせるということです)。利益と不利益をこのように限定的な意味でつかっていきます。よろしくご注意ください。


 つぎに、腹を減らした一頭の肉食獣のまえに、一匹のか弱い小動物がいる場面を想像してみてください。いまこの肉食獣がその小動物に食らいつくとします。するとその小動物は不利益をこうむります。


 この肉食獣にとって、利益を得るとは、他に不利益を与えることになります。


 では逆に、この小動物が自らを肉食獣にさし出すとすればどうでしょうか。


 この小動物にとって、他に利益を与えるとは、自分が不利益をこうむることになります。


 いま例をあげ、利益と不利益がコインの表裏のように表裏一体になっている二種類の場合を見ました。


 さてここで、こう仮定することにします。この世ではつねに利益と不利益は、この例でのように表裏一体になっているものである、と。すると、「利益を得るとはかならず他に不利益を与えることであり、かたや他に利益を与えるとはかならず自分が不利益をこうむることだ」と言えることになります*2


 これから、「利益を得るとはかならず他に不利益を与えることであり、かたや他に利益を与えるとはかならず自分が不利益をこうむることだ」といったように、利益と不利益をつねに表裏一体であると仮定すると、世界がどのように見えることになるか、確認していきます。


 いま、「利益を得るとはかならず他に不利益を与えること」だと仮定しました。したがって、自分が利益を得ることは、つねに他に不利益を与えることであるために、他を押しのけるといった意味を持つことになります。そう言うと「いや、ちょっと待って」と言いたくなるかたもおられるかもしれません。異議をさしはさみたくなる気持、ようくわかります。けれどもそのもっともな疑念はいましばらくのあいだ、ご自分の胸のうちにしっかり大事に秘めておいてください。


 いまは先を急ぎます。


 大事なことです、繰り返し申します。利益と不利益をコインの表裏のようにつねに表裏一体と考えると、自分の利益を得ることはかならずどんな場合も、他に不利益を与えること、すなわち、他を「押しのける」ことになります(これをもって、他を「押しのける」という言葉の定義に代えさせていただきます)。


 いま、自分の利益を得る場合について考えました。他に利益を与える場合はどうなるでしょうか。


 利益と不利益をコインの表裏のようにつねに表裏一体と考えると、他に利益を与えるとはかならず自分が不利益をこうむることになります(ここでも、異議申し立てをしたくなる気持ち、ぐっとこらえてください)。他に利益を与えることはつねに、自分が犠牲になることを意味するようになります。


 よってこうなります。


 当たり前のことですが、生物個体は、生きていくために自分の利益を得なければなりません。いま確認したように、利益と不利益をつねに表裏一体とみなしますと、みずから自分の利益を得ることはとうぜん、生きるのに役立つが、他に利益を与えることのほうは、自分の利益を得られないうえ、不利益すらこうむることにもなって、生きるのに役立たないどころか、その足引っぱりにすぎないということになります。


 以上、利益と不利益をつねに表裏一体と仮定すると、どうなるか、見てきました。


 鉄はあついうちに打て。いま見たばかりのところを、箇条書きをつかって再確認します。

  • 論理1〉利益を得るとはかならず他に不利益を与えること、つまり他を「押しのける」ことである。
  • 論理2〉他に利益を与えるとはかならず自分が不利益をこうむること、すなわち「自分が犠牲になる」ことである。
  • 論理3〉他を「押しのける」ことは、生きるために利益を得ることの役に立つが、他に利益を与えること(自分が犠牲になること)は、生きるのに何の役にも立たないどころか、足引っぱりになるにすぎない。


 利益と不利益をコインの表裏のようにつねに表裏一体と見なしますと、生物にはこのように、生きるのに役立つ、他を「押しのける」行為と、生きることの足引っぱりでしかない、「自分が犠牲になる」行為のふたつしかないことになります。


 ではいまから、利益と不利益をこのようにつねに表裏一体とする見方が、ドーキンスの進化論的世界観の根底にあることを確かめていきます。

つづく


前回(序)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月14日、あらたに上記3カ所をゴシック体にしました。

*2:2018年7月14日追加。この世には全員を満たすだけの利益はないと仮定し、利益獲得を、イス取りゲームのように見るということです。

人口論 (光文社古典新訳文庫)

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