(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

今後の予定

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね(序)


 しばらくまえ、カワグチ・サチジ・シリーズ(二篇やりました)と銘打って、原因丸々ひとつを特定できるか、思考実験をして確かめました。結論だけを言いますと、原因丸々ひとつは特定できませんでした(と愚かな俺は思っています)。どう頑張っても、かならず原因の一部分が突きとめられないまま残りました。


 しかも、突きとめきれないまま残る、そうした部分の存在を無視するのは得策ではありませんでした。突きとめられていない部分のことも考慮にいれたほうが、事態はよりまともに説明できるようになりました。そうした部分にも思いを致すほうが今後、得になる可能性は高いと言えます。


 しかしそれにしても、なぜ、原因丸々ひとつを特定することはできないのでしょうか。


 カワグチ・サチジは原因というものはそもそも存在しないのではないかと申しておりました。もし存在しないのなら、探しても見つからないのは当然です。


 原因とは何でしたでしょう。


 病気や事故といった出来事の原因を特定するとは、出来事を一箇所(原因部分)のせいにすることです。つまり原因丸々ひとつを突きとめきれないというのは、病気や事故といった出来事を一箇所のせいにすることはできない、ということではないでしょうか。


 じっさい物理学では出来事を一箇所のせいにすることはない、とカワグチは指摘していました。現にボールが転がるという出来事を、一箇所のせいにする仕方で説明することはできませんでした。にもかかわらず、科学はなぜ、生物に関する出来事を説明するだんになると、一箇所(原因部分)のせいにしだすのか、と彼は疑問を呈していました。


 そういうことをカワグチと一緒に考えていたとき、俺の念頭にあったのはリチャード・ドーキンスです。動物行動学者の、あのドーキンスです。より厳密にいえば、念頭にあったのは彼の『利己的な遺伝子』ですけれども。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 その本にはメチャンコおもしろい論理がつぎからつぎへと出てきます(そのメチャンコおもしろい論理の波に読者はみんな溺れてきたにちがいありません)。いま、出来事を一箇所のせいにすることはできないと申しましたけれども、じつはドーキンスもその本でそう強調します。そんなことは当たり前田のクラッカーだと言わんばかりに、です。ところが、彼は、そう言った舌の根も乾かないうちに、生物の身体のつくりや行動を、一箇所(遺伝子の一部分)のせいにします。


 爪を単独でつくりあげる遺伝子なんてないし、仲間が溺れているのを飛びこんで助けさせる遺伝子なんていうのもないといったようなことを言っていたかと思うと、もうつぎの瞬間には、爪をつくりあげる遺伝子や仲間が溺れているのを飛びこんで助けさせる遺伝子があると言ってよいのだと、言っています。


 そして、一箇所のせいにはできないと言っていたにもかかわらず、急に一箇所のせいにしてよいとしだした理由を熱く語りはじめます。その理屈を俺は、ドーキンスの『利己的な遺伝子』に登場するメチャンコおもしろい論理群のなかの第一位に数え入れているほどでして、カワグチとともに、どんな出来事も一箇所のせいにはできないのではないかと考えていたときに俺が思い出していたのは厳密に申しますと、俺が一等賞をさしあげている、ドーキンスのこの理屈だったわけです。


 で、善は急げ、彼のこの理屈について書き、そのメチャンコなおもしろさぶり(と論理的重要性と)をぜひみなさんと共有しようと、俺はさっそく『利己的な遺伝子』を手にとりました。


 すると、あにはからんや、「ちょっと待ってよ」ともうひとりの俺がしきりと俺自身に呼びかけてきます。


 その本にはいろんなことが書かれてあって、ヨーロッパヨーロッパしたその進化論の世界観がなにより、読むもののドギモをぬきますが、出来事を一箇所のせいにはできないと言いながらも一箇所のせいにしてよいとする、ドーキンスの理屈について書くまえに、ドギモをぬいてくるその進化論的世界観のほうをまずちょっととりあげてみようよ、と、そのもうひとりの俺は俺に促してきます。


 どうせ誰も読んでないんだ、you, 書いちゃおうよ、と。


 そこまで俺自身に言われれば仕方がありません(いったいさっきから俺はナニを言うているのや?)。俺は先に進化論の世界観を書くことにしました。ただ、進化論の世界観とは言いますものの、いろんなかたがいろんな進化論を口にされていて、俺みたいに愚かで無能な人間がそれらすべてを把握できているはずはありません。正確にいえば俺が今回扱うのは、リチャード・ドーキンスの進化論的世界観だとまずお断り申し上げます(進化論すべてを扱うかのような紛らわしい言い方をしまして、まことに申し訳ありませんでした)。


 もう一点、まえもってお断り申し上げておかなければならないことがあります。


 今年(2015年)の四月に、寺田寅彦さんの文章をひきあいに出し、科学が存在をどのように読み替えているのか確認しました。この読み替えは、関係のすり替えをともないます。出来事を一箇所のせいにすることはできないとクドクドと言い続けているここ数ヶ月は、この関係のすり替えにいたる前段階に当たります。


 もうそろそろ、関係のすり替えに足を踏みいれる時期に来ています。


 しかし、ドーキンスの進化論的世界観についてこれからします考察は、この関係のすり替えとは関係がありません。存在の読み替えとも関係がありません。


 進化論の世界観を見たあと、出来事を一箇所のせいにはできないと言いながらも一箇所のせいにしてよいとする、ドーキンスのメチャンコおもしろい理屈についての考察に急いでもどり、関係のすり替えにむけて、いっしんに駆け出していくつもりです。


 進化論についての考察は、寄り道です。


 ご了承ください。


 グズグズ申しまして、すみません。では、進化論についての考察、はじまります。

つづく


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。