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科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ハイデガー『形而上学入門』/3.第2章「ある」という語の文法と語原学とによせて

2のつづき

 第一章の、「存在」という言葉は幻であるという驚愕の結論を受けて、第二章以降ハイデガーは、「ある」という言葉を考察していく。第二章までしか読み終わっていない今の段階ではその考察について何も言えないが、その何も言えない今のうちに、「ある」という言葉についての自分流の考察を先に済ませておくことにする。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

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 第一章のその結論を受けて「ある」という言葉を考察し始めたハイデガーのマネをするわけだが、ここで私が受けるのは、「存在」という言葉は幻であるとする結論のほうではない。私自身が出した「この世にある全てが存在である」という結論のほうである。


 存在という語は幻であるとする結論が第一章で出ていたが、それは、同じとは「互いに隅々まで違いがないこと」であるとする誤解に基づいていた。同じとするのは正しくは、互いに違いのあるもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めてひとくくりにすることである。ありとあらゆるものを、「存在」という同じものとするのは、それらの間にある、違いという違いを全て含めてひとくくりにすることだった。普段そのようにして、私たちや私たちの周囲の全てを、つまり、この世にある全てを存在として私たちは捉えているのである。


 では、私たちのほうの結論、「この世の全てが存在である」を踏まえた上で、私は私流に、「ある」という言葉について考察してみよう。考察した結果、どういうことになるだろうか。


「ピアノがある」と言うとしよう。もし、そうとだけ言って、成立するとすれば、それは、眼の前、或いは前方に実際にピアノがある場合だろう。自分の背後にピアノがある場合は、「ピアノがある」と言う時、自分の背後を気にするような、少しうつろな目つきで言えば、その言い方は、聞き手に通じるものになるのではないだろうか。


 これらどちらの場合も「ピアノがある」という言葉を考察するのに、私たちは「状況」に配慮することになっている。


 さて、以上はどちらも、その後に言葉を加える必要がない場合だった。


 周囲にピアノがない場合は、「ピアノがある」と一言、言っただけでは成立しない。自分も含めた、聞き手に対して、もっと言葉を尽くさなければならない。「ピアノがある」という言葉を聞いた自分自身や、話し相手は、「どこに?」という疑問を持つことになっただろう。そこで話し手は続いて、例えば「世の中には」といったような言葉を付け加えることになる。或いは「私の知り合いの家には」と付け足すことになる。この場合もまた、「状況」に配慮することになっているわけである。


 こうして考えてみると、「ある」という言葉を使っている際、私たちが「状況」に配慮しているのがわかる。つまり自分の周囲一帯の様子に気を配っているのである。


 それは疑問文を作ってみると、もっと簡単に、しかももっとよくわかる。「ピアノがある」の疑問文は「ピアノがどのようにあるか」である。この問いに私たちは、部屋の中にあるとか、窓際にあるとか、或いは、私からはこれこれに見えるとかと答えるだろう。状況を答えるのである。


 以上、「この世のあらゆるものが存在である」という結論を受けて、大雑把ながら、「ある」という言葉を自分流に考察してみた。そして、存在を問うとは、「どのようにあるか」を訊くことであり、状況把握を求めることだと確認した次第なのである。


前回の記事はこちら。

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