*障害という言葉のどこに差別があるか考える第6回
正常異常の区別は、ひとという作り手がいる機械に対してはつけられても、作り手の存在しないひとに対してはつけられず、ひとを正常と異常に振り分ければ、不当な差別をしていることになると確認しました。
しかし科学にならって、自然をひとの作り手と想定することも可能であるような気がします。
自然をひとの作り手と想定すれば、一転、ひとに対して正常異常の区別がつけられるようになるのか、いまから点検します。
ひとに正常異常を言うとは、ひとが《作り手の定めたとおりになっていない》のを問題とし、ひとが〈作り手の定めたとおりになっている〉のを正常、ひとが《作り手の定めたとおりになっていない》のを異常と呼ぶことでした。ひとの作り手を自然と想定しますと、ひとが〈作り手の定めたとおりになっている〉《なっていない》というのは、〈自然の定めたとおりになっている〉《なっていない》とまず言い換えられます。
ついで、〈自然の定めたとおりになっている〉《なっていない》というのは、〈自然法則どおりになっている〉《なっていない》と言い換えられ、さらに〈自然法則どおりになっている〉《自然法則どおりになっていない》というのは、〈奇蹟を呈していない〉《奇蹟を呈している》と言い改められます。
すなわち、ひとが《奇蹟を呈している》のを異常と呼ぶ、ということになります。
ところが科学はこの世に奇蹟の存在を認めることができません。奇蹟の存在を認めれば、学説は何でもありになって、途端に科学は科学ではなくなってしまいます。奇蹟の存在を認めない科学のそうした姿勢にもとづく限り、ひとが《奇蹟を呈している》ことなどあり得ない、つまり、異常なひとはこの世に存在しないとしか考えられません。ひとに対して正常異常の区別をつけようとしても、どのひとのことも正常と判定することになるばかりで、実質そうした区別はつけられないということになります。にもかかわらず、ひとを正常と異常に振り分ければ、前者に振り分けられたひとたちと、理不尽にも後者に振り分けられたひとたちとのあいだに不当な差をつけていることになります。このように不当な差をつけてひとを分けるのはそれこそ差別以外の何ものでもありません。
ひとには作り手が存在しないと考えようが、ひとの作り手を自然と考えようが、結論は変わりません。
正常異常の区別は機械に対してはつけられても、ひとに対してはつけられません。それでもひとを正常と異常に振り分ければ、不当な差別をしていることになります。
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