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ハイデガー『形而上学入門』/2.第1章 形而上学の根本の問い(続)

1のつづき

 彼は、現にそこここにある存在とは違った、別の存在を考えているのである。


 彼が想定するその存在は、「問う前に既に眼の前に与えられている存在者から無媒介に出発」するのでは捉えられないものなのである。


 そしてその別の存在があってこそ、存在は存在として成立すると考えているのである。


 しかし想定されたその、別の存在は捉えられず、結果「存在という言葉は幻である」ということになるのである。


 存在はそこここにある。しかし、それとは違うその別の「存在」なるものを想定してハイデガーはこう語っている。ちなみに、次の文章で彼は、今述べているこの、別の存在のことを「存在」と呼んでいる。また、眼の前に既に与えられている存在のことは「存在者」と呼び、無については「非存在」と言っている。つまり「存在」と「存在者」について彼は語るのである。

 はからずもここでわれわれは存在者の非存在と存在について語っている。非存在とか存在とか呼ばれているものが存在者そのものとどんなに関係するのかを言ってもいないのに。両者は同じなのだろうか? つまり、存在者とそれの存在とは? この区別! たとえば、この一本の白墨において存在者とは何か? 既にこの問いが両義的である。というのは存在者という語は、ギリシア語の to on という語と同じように、二つの観点から理解されるのである。一方では存在者は、そのつど存在的である「ところのもの」(引用者注:「」内傍点)、個々の場合で言えば、この灰白色の、これこれの形をした、軽い、折れやすい塊を意味する*1


 眼の前にある、私たちの知っている存在のことである。何度も言うように、私たちはこれらについて、「どのようにあるか」とだけ問い、状況把握をすれば、それに答えられるのだった。しかし、ハイデガーは余計なもう一つの存在を持ち出している。それはここで次のように説明される。

また他方では「存在者」は、いわば当該のものが一つの存在者であってむしろ非存在的であるのではないように「させている」ところのもの、すなわち存在者が存在者である場合、その存在者において存在を構成しているものを意味する。「存在者」という語のこの二重の意味からすれば、ギリシア語の to on は、しばしば第二の意味を表わし、したがって存在者そのもの、存在的である「ところのもの」(「」内傍点)でなく、「存在態」、存在者性、存在者存在、つまり存在を意味する。これに反して第一の意味での「存在者」はすべての、あるいは個々の、存在する物そのものを言うのであって、すべて存在する物に関係し、その物の存在者性 ousia には関係しない。


 to on の第一の意味は ta onta(entia)であり、第二の意味は to einaiesse)である*2


 存在者を存在者として成立させるのが、第二の「存在」であって、本質(エッセンス)としての存在であるというのである。


 それにしても、こんな第二の「存在(エッセンス)」(と勝手に呼ぶことにする)など、どこから出してきたのだろう。それがあるから、存在者が存在者として成立するというような、そんな存在を? 


 それは、同じとすることがどういうことかを誤解したところからなのである。


 くっちゃべってないでさ
 ひとりで考えなよ
 それは何なの?
 存在なの?
 存在って何さ?
 どんなものなの?


 目の前の白墨も、ペンも、パソコンも、存在である。それらは全て、ここで言うなら、第一の意味での「存在(存在者)」である。第一の意味での存在として、同じものである。そのように同じものとするとき、私たちは互いに違いを持っているこれら、白墨、ペン、パソコンをひとくくりにしている。それらの間の違いという違いを全てひっくるめて、そのように一つにくくっている。こうして、違いのあるもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めてひとくくりにするのが、同じとすることである。「存在として同じ」とする仕方は、これ一つしかない。そして、それは第一の意味での存在であって、「存在はどのようにあるか」と問えるものである。


 しかし、西洋文化では、同じとすることを、このようには考えない。同じとは「互いに隅々まで違いがないこと」と考えるのである。


 白墨、ペン、パソコンが存在として同じであるのは、それら違いのあるもの同士全てに、「互いに隅々まで違いのない」何かが共通してあるからだというわけなのである。この「互いに隅々まで違いがない」共通する何かが二つ目の「存在(エッセンス)」である。存在者を存在者として成立させるものというわけなのである。

 ところが、「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という初めに立てられた疑問文の形で問う場合には、下の句があるおかげで、われわれは、問うておりながら、じつはただ問う前に既に眼の前に与えられている存在者から無媒介に出発し、出発するやいなや早速ずっと深入りしてしまって、求められている根拠を、これまた何か存在するものと思いこみ、そんな根拠へと迷い進むなどという、そんなことにならなくてすむ。その代わり、この存在者は、問うという形で非存在の可能性へと引き出される。そのことによって、なぜの問いは全く違った問う力と鋭さを得る。なぜ存在者は非存在の可能性からもぎ離されているのか? なぜ存在者は、無造作に、絶えず、非存在の可能性へと崩れ戻らないのか? こうなると、存在者はもはや、とにもかくにも現に眼の前に既にあるものではなくなり、それは振動し始める」*3


「なぜ存在者は非存在の可能性からもぎ離されているのか? なぜ存在者は、無造作に、絶えず、非存在の可能性へと崩れ戻らないのか?」つまり、存在(エッセンス)があるからというわけなのである。


 しかし、違いのあるもの同士全てに共通して見つかるはずの「互いに隅々まで違いがない何か」などを想定してみたところで、果して見つかるのだろうか。


 もちろんそれは、同じとすることをこのように「互いに隅々まで違いがないこと」と誤解している人にとっては、存在全てにあるのでなければならない。


 けれども、全ての存在者に見つかるはずである「互いに隅々まで違いがない何か」は見つからない。存在という言葉は幻である、という結論に行き着くことになるのである。


 ここでも引き続き、第二の意味での存在(エッセンス)を「存在」と呼び、第一の意味での存在を「存在者」と彼は言っている。

われわれはさきに白墨において存在者であるところのものを数えあげた。われわれはまたこれを比較的たやすく見つけた。さらにはまたわれわれは、当該のものが存在しないこともありうること、この白墨が結局ここに存在しなくてもよく、どこにも存在しなくてもよいということをもたやすく洞察できる。その場合しかし、存在の中に立つこともできるし非存在の中に引きこもってしまうこともできるようなものではない、つまり存在者ではないー存在ーとは何か? それは存在者と同じものか? このようにわれわれは改めて問う。しかし、さきに問うたときには、われわれは存在をともに数えあげはしなかった。ただ灰白色で、軽くて、これこれの形をしていて、壊れやすい物質的な塊と言っただけである。だから、一体どこに存在が隠れているのか? と言いたくもなるだろう。しかし存在は、やはりこの白墨に属しているはずである。というのは、それ自身、つまりこの白墨自身は「ある」(「」内傍点)のだからである。


 存在者は到る所でわれわれに出会い、われわれを取り囲み、支え、強制し、魅了し、満ちたらせ、引き立て、欺く。だが、いずれにしても、その場合、存在者の存在はどこにあり、どこに存立しているのか?*4


 くっちゃべってないでさ
 ひとりで考えなよ
 それは何なの?
 存在なの?
 存在って何さ?
 どんなものなの?


 同じとするとはどういうことなのかを考えることになった。結局のところ、何度も言うように「存在はどのようにあるか」と問い、全てのものを、同じ存在として、それらの間の違いという違いを丸々含めて、ひとくくりにすればいいだけの話しなのである。


前回の記事はこちら。

whatisgoing-on.hateblo.jp

 

*1:ハイデガー形而上学入門』平凡社ライブラリー、1994年、58頁

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

 

*2:同書59頁

*3:同書54、55頁。再引用。

*4:同書60頁