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科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ハイデガー『形而上学入門』/6.番外篇〜脳科学は存在証明をなしえていない〜

4のつづき

 重箱の隅をつつくような、どうでもいい問題をとりあげているのでは決してないのである。私たちの日常生活に関係のない話しは一切していない。むしろ、生々しい生活の一面について終始私たちは触れているのである。


「ウソだぁ」


 ウソではありません。


「だって哲学の問題なんでしょ?」


 科学の問題でもあります。


「存在が見つからないお話しとか、『外見』の他にある『実在』についてのお話しをしてるんだよ? 今、『形而上学入門』とか『哲学入門』を見てるんだよね?」


 そうです。私たちはハイデガー著『形而上学入門』を第三章終了部分まで読んだ。そこでのハイデガーは、この世の全てが存在であるのにもかかわらず、存在が見つからないと言って、存在を探していたのだった。


「変わったこと言ってるよね、ハイデガーのおじさんは。そんなこと言う人、普通いないよ? 病院に連れてこうか?」


 しかし、存在が見つからないと言っているのは、ハイデガー一人ではなかった。むしろ、哲学では従来から、存在が見つからないことになっているのである。


「ほんとかなぁ」


 私の前に見えている机は、私の目の前のそこに、そのようにして在る。それは「外見」であると同時に「実在」である。が、その姿は単に「外見」であって、その「外見」とは別に、その机の「実在」があるのだとラッセルは言っていたのだった。


 私が今見ている、その机の姿と、私以外の人が今見ている、その机の姿とは、「互いに隅から隅まで違いがない」のではない。だから、私が見ているものも、私以外のその人たちが見ているものも、ともに「ほんとうの机」ではないのだと彼は考えて、私たちが捉えている、机の姿を全て「外見」にすぎないものと喝破したわけである。


 そうして、「ほんとうの机」なるものが、私たちの捉えている、それら机の姿以外のものとして、どこかに存在するということにしてしまったのである。


 机の他、同様にして、椅子、戸棚、ベッド、テレビ、パソコン、君、彼、彼女など、在るもの全てが「外見」にすぎないものとされ、それ以外に、ほんとうの椅子、ほんとうの戸棚、ほんとうのベッド、ほんとうのテレビ、ほんとうのパソコン、ほんとうの君、ほんとうの彼、ほんとうの彼女が在ることになったのである。


 そして実は、この「外見」と「実在」の区分に従って、科学は人間を説明しているのだ。


「ウソだぁ!」


「外見」は「内界」と言い直し、「実在」は「外界」と言い換えられる。


 現代人の大好きな脳科学では、見ることをこう説明するのである。


 私たちの外に「外界(実在)」がある。その「外界」がどのようにあるかという情報を「信号」として、光はうちに秘めながら、目の中に入ってくる。そして、視神経にその「信号」を譲り渡す。すると、神経を伝って、この「信号」は大脳まで至り、そこで「外界」がどのようにあるかという情報がこの「信号」から脳によって読み解かれて、「外界のコピー」が作られる。「外界のコピー」とは別の言い方で言えば、「外見」のことであり、また「内界」である。

 では、次に目でなにかを見たときはどうなるかを考えてみましょう。瞳孔に光が入ってくると、網膜の神経細胞から信号が出て、これが「視神経」を通って脳のなかに入ってくるのですが、中脳には瞳孔を小さくする筋肉とつながる経路があって、意識しないでも強い光が当たれば瞳孔は縮むし、暗がりでは瞳孔は開くという自動調節がなされています。


 そういう一連の活動がもうすでに脳幹で行われて、そのうえでそれと並行して網膜の信号が大脳の皮質へ上がってくるのです。その信号は大脳の後頭部にある「視覚野」(図1‐3)に入ってきて、そこで網膜で受けとった情報が分析されて、見たものの認識ということにつながってくるのです*1


「むむっ? 目の前に見えている机は、あたしの脳の中に作られた映像にすぎなくて、その映像のもとになる机が、実在として、その映像とは別に存在することになってる!」


 繰り返し確認するが、目の前に見えている机は、その場所に、そのようにして在る。その姿は「外見」であると同時に、「実在」なのである。「外見」の他に、「実在」があるのではないのである。


「科学も、ラッセルやハイデガーのおじさんとおんなじこと言ってるんだね。音情報は、空気の振動の中に信号として秘められ、耳から脳の中に入り、解析される。匂い情報は、匂い分子の中に信号として秘められ、鼻から脳の中に入り、解析されるというわけね」


 私たちは世界の中にいる。世界は一つである。科学は「外界」と「内界」を持ち出し、哲学は「実在」と「外見(もしくは外界のコピー、または観念)」を想定するが、実際のところ二つも世界はないのである。それに、「外界」は私の「外」にある世界という意味であるが、世界の中に私がいるのである。一方「内界」は私の中にある世界という意味であるが、やはり、世界の中に私がいるのである。


 ところで話しが前の方に戻るが、こうした「外界(実在)」と「内界(外見、あるいは観念)」の区分は、哲学では昔からあって、ハイデガーが指摘しているように、「外界(実在)」は見つからないことになっているのだと先に書いた。それはウソではないのである。

 デカルトにはじまる近代哲学は、心に与えられた内的所与である〈観念〉のみを確実なものとして承認し、そこから出発する、という構図をとる。その結果、通常はわれわれの〈外部に〉存在すると考えられている世界を、内的な観念からどのように導くのかという問題が生じる。外界の存在を証明できないのは「哲学のスキャンダル」であると述べて、この問題を明確に定式化したのはカントであった。彼は『純粋理性批判』の初版において、外界はわれわれの知覚を引き起こす原因であるが、結果から原因への推理は確実ではない、ゆえに外界は、外的現象としてわれわれの〈空間に〉直接与えられており、推理によって証明されるべきものではないからである。しかし同書の第二版では、この「観念性の誤謬推理」の節は削除され、あらたに「観念論論駁」が書かれた。それによれば、私が自分を時間の中にあるものとして捉えることは、変化せずに持続するものが私の外部にあることを前提しなければ不可能であるから、外界の存在は、私の〈内的・時間的〉経験から直接に証明されるとされた。(略)ハイデガーは『存在と時間』第43節において、カントの「観念論論駁」は、認識論というものが転倒した問題の立て方をする典型的な例であるとして批判した。すなわち、孤立した主観の存在を疑わずに前提に置いて、それと並んで外界が事物のように存在すると考える構図自体が不適切であり、外界の存在証明は不要である、と。しかし外界の存在の問題は、近代の〈主観‐客観〉の構図と相即的であり、その意味と評価がハイデガーの批判によって決着したとは言い難い。20世紀においても、ムーアは「心の外」という表現の意味論的分析によって、またラッセルは、感覚与件による「物」の構成という観点から、それぞれ外界存在の問題を論じている*2


 ハイデガーが批判する通りである。「孤立した主観の存在を疑わずに前提に置い」たのが決定的な誤りだったのである。最初にそうした「孤立した主観」を想定したのはデカルトだろう。しかし、またこれについては別のところで。


 とにかく、ハイデガーは存在が見つからないと言って、『形而上学入門』で探しまわっているが、それは同時に、「外界」と「内界」を説明に持ち出す現代科学の生々しい、深刻な問題でもある。もし、「外界」と「内界」の二つを使って説明を続けていくつもりなら、科学もハイデガーと一緒に、存在を探してまわらないといけないのである。


 外界の存在を証明できないのは「哲学のスキャンダル」ではもはや済まず、「科学のスキャンダル」でもあるのだ。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

 
(了)


ハイデガー形而上学入門』についての酷い書評もどきはこちら。

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*1:伊藤正男『脳のメカニズム』岩波ジュニア新書115、1986年、12頁

*2:植村恒一郎「外界の存在証明」『岩波 哲学・思想事典』、1998年、200頁

岩波哲学・思想事典

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