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ハイデガー『形而上学入門』/1.第1章 形而上学の根本の問い

 ハイデガーがフライブルグ大学、1935年夏学期の講義のために用意したテクストを印刷したのが、この『形而上学入門』(平凡社ライブラリー、1994年)であるそうだ。書名からするとこの講義は、形而上学に入門するしかたを説いたもののように思われるが、はたしてそう考えてよいものだったのだろうか?

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

 


 が、それにしても形而上学とはいったい何なのだろう? 難しいことを言っている講義なのか? で、そのケイジジョウガクとやらに入門できたとすれば、どんなよいことが起きるのだろう?


 この第一章でハイデガーは「存在」について問うている。もっと正確にいうなら、「存在について問う」ことについて長々と語っている。ではその結論はというと、こう言ってよいだろう。


 存在は問うに値するものである。しかし今のところ、私たちは存在という言葉を幻としてしか捉ええていない。であるからして、この「言葉」についての考察から出発しなければならないのだ。


 驚愕の結論である。存在という言葉が幻であるというのだ。


 彼は向かいの高等実業学校をあげる。さらに白墨を、オートバイを、ビロード、教会、絵、靴を。そして言う。

しかし、われわれが列挙したものはみなあるに違いない。にもかかわらずーーー存在を捉えようとすると、いつでもまるで空をつかむようなことになる。われわれがそこで問い求めている存在はほとんど無のごときものである。そうはいうものの、一方でわれわれは、もし誰かが存在者はすべてあるのでないのだなどと無理なことを言いだしたら、いつもその人に抵抗しようとしたし、お前はそう考えているのだろうなどと誰かに言われたら、われわれはその人に抗議するだろう。 


 だが依然として存在は、ほとんど無と同じくらいに、いな、結局は無と全く同じく、見つけ出しがたい。とすれば「存在」という語は、結局一つのむなしい語にすぎない。それは現実的な、把握可能な、実在的な何ものをも意味しない。それの意味するところは一つの非現実的な幻である*1


 私もあなたも存在だし、私たちのまわりも存在だらけである。何もない空いた場所ですら存在である。「存在は、ほとんど無と同じくらいに、いな、結局は無と全く同じく、見つけ出しがたい」といったことは決してありえない。存在という言葉が幻であるわけはない。


 にもかかわらず、ハイデガーはどうして「存在は無と全く同じく、見つけ出しがたい」と言うのだろうか?


 私たちはきっと、この第一章を読んでそういう疑問を抱くだろう。


 それと同時にもうひとつ、これとよく似た疑問を私たちは抱くことになるにちがいない。ハイデガーは存在を問うといって、こういう疑問文を作る。「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」。彼は、存在を問うなら、こうした問い方をしなければならないと長々と語る。


 つまり、私たち読者は、存在を問うときにどうして、「無」と共に考えなければならないのかと、不思議に思うにちがいないのである。「存在はどのようにあるのか」と、存在だけを問えばよいのではないか? 


 そして、実にハイデガーは、この「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という、私たちには不思議に思われる問い方で問い、その答えとして、先の「存在が無と全く同じく、見つけ出しがたい」という結論を出してくるのである。


 ハイデガーはこの章で、存在についての問いに関して語っているが、私たちは、この第一章を読んで持つことになった、私たちなりの疑問のほうを考察することにしよう。


 存在について問うとき、どうして、「存在はどのようにあるのか」と問うのではなしに、「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」といったように、「無」も共に問わなければならないとハイデガーは言うのか。


 また、そこここに存在は明白に認められるにもかかわらず、なぜ彼は、「存在が無と全く同じく、見つけ出しがたい」とその問いに対して答えるのか。


 私たちは私たちの疑問を解消することでこそ、ハイデガーのこの講義をより理解できるにちがいいないのである。


 そうだ、人の横顔ばかりを見ていてもしかたがないのだ。その人のことが好きでずっと眺めていたいとか、その人のことが憎くてずっと睨みつけていたいというなら別だろうが、その人のことを知りたいのなら、その人の横顔ばかりを見ているばかりではいけないだろう。


 その人が現に見ているものを、自分自身でも実際に眼差してみなければ、その人が何を見ているのか知ることはできないのである。


 さあ、これから私たちの疑問を解いていこう。


「存在はどのようにあるのか」とだけ問えばいいところ、どうして「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」と言わなければならないと彼は言うのか。答えは簡単である。


 存在を問うときに、存在を「前提」にして問うていいし、そのようにして問うべきであるにもかかわらず、前提にして問うてはいけないと考えているのである。


 存在とは何であるのかが全くわからない状態で、存在について問わなければならないと考えているということなのである。

 ところが、「なぜ存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という初めに立てられた疑問文の形で問う場合には、下の句があるおかげで、われわれは、問うておりながら、じつはただ問う前に既に眼の前に与えられている存在者から無媒介に出発し、出発するやいなや早速ずっと深入りしてしまって、求められている根拠を、これまた何か存在するものと思いこみ、そんな根拠へと迷い進むなどという、そんなことにならなくてすむ。その代わり、この存在者は、問うという形で非存在の可能性へと引き出される。そのことによって、なぜの問いは全く違った問う力と鋭さを得る。なぜ存在者は非存在の可能性からもぎ離されているのか? なぜ存在者は、無造作に、絶えず、非存在の可能性へと崩れ戻らないのか? こうなると、存在者はもはや、とにもかくにも現に眼の前に既にあるものではなくなり、それは振動し始める*2


「じつはただ問う前に既に眼の前に与えられている存在者から無媒介に出発」すればいいではないか。そして、「存在はどのようにあるのか」と問い、それに答えればいいではないか。つまり、状況把握をしさえすればいいではないか。


 では、どうして「問う前に既に眼の前に与えられている存在者から無媒介に出発」してはいけないとこのように考えるのか、考えてみよう。

 

*1:同書67頁

*2:同書54、55頁