(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学による2種類の切断事件

 2016年もひきつづき、みずからが愚かものであることを証明せんとばかりに、愚かもののひとつ覚えぶりを思うぞんぶん発揮してまいる所存である。なにとぞヨロシクお願いもうしあげる次第である。


 では、かくもうすコッケイな俺は、恥ずかしげもなく、いったい何について今年もまたクドクドともうし述べてまいるつもりなのか。


 どの存在も他とつながって在るものだけれども、科学は、ヨーロッパの伝統的な思想を受けついで、いずれの存在をも、他から切り離されて在るものとする(そう申しても過言ではないと考えている俺はフッサールハイデガーメルロ=ポンティといった現象学派の哲学者を、ネコの額ほど窮屈な俺の念頭においている)。いまどの存在も「他とつながって在るもの」だとお書きしたように、愚見によると、存在同士は二種類の意味でつながっている。「他とつながって在るもの」である存在を、「他から切り離されて在るもの」とするというのは、この二種類のつながりを切断する操作だともうせよう。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

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知覚の現象学 〈改装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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 この二種類の切断操作のうちのひとつについてはさくねん、雀のナミダほどの筆力をフル稼働してもうし述べた。存在を、「他のものと共に在るにあたってどのように在るか」という問いに逐一答えるものから、無応答で在るもの(客観的なもの)へと読み替えるという操作が、それであった*1。本年は、ちから不足な俺の思考力と筆力とを、生まれたての子ジカの四肢のようにブルブル震わせながら、もうひとつの切断操作についてもお書きするつもりである。ちょっち先取りしてもうしあげると、科学はその切断操作から、世界を主観と客観からなる構図へと読み替え、身体感覚を意識(科学は心と呼ぶが)に、また身体の物的部分についてはそれだけで過不足の無いひとつの身体へと読み替えるというわけである。

(了)

 

*1:2018年8月18日に表現を改めました。