(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

ドーキンスも換骨奪胎していたね

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第8回

 さて、ドーキンスのこの読み替えでも、「進化論的理論」が「新・進化論的理論」へと換骨奪胎されていたことにみなさんは、お気づきだったと思います。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 利他的行為は(すでに)無く、今現在、利己的行為しか存在しないにちがいないとする「進化論的理論」
生物個体については言えませんでした。そこでドーキンスは、生物個体については言えない、利他的行為は(すでに)無く、今現在、利己的行為しか存在しないにちがいないとするこの「進化論的理論」を、遺伝子に当てはめることにしました。すると、遺伝子には利他的行為は(すでに)無く、今現在、利己的行為しか存在しないにちがいないとする「新・進化論的理論」ができあがりました。そして、現にこの世に存在する生物個体による利己的行為や利他的行為は、遺伝子による利己的行為に該当するがために、この世に存在するのだと解されることになりました。


 これが、ドーキンスのやってみせた、生物個体による利己的行為と利他的行為をともに、遺伝子による利己的行為へ読み替えるという操作です。


 しかしこの「新・進化論的理論」もまた遺伝子を調べた結果出てきた結論ではありません。遺伝子が、ライバル遺伝子に利益を与え、自らは不利益をこうむるといった利他的行為をしている様子はじっさいにはまったく見られなかったとか、遺伝子Aが遺伝子Bに利益を与え、逆に遺伝子Bから利益を与えられるといった利益の与えあい(後述します)をしている気配も見当たらず、ただただ遺伝子が、利益を得、そのライバル遺伝子に不利益を与えるという利己的行為しかしていないのが遺伝子を調査した結果わかったというのではありません。単に、生物個体には言えなかった、利他的行為は(すでに)無く、利己的行為しか存在しないにちがいないとする「進化論的理論」をこれといった根拠もなしにただ遺伝子に当てはめただけにすぎません。群淘汰論者もドーキンスも、「進化論的理論」をめいめい「新・進化論的理論」へと換骨奪胎しますが、どちらもこれといった根拠にものっとっているわけではありません。こうした換骨奪胎は、単にこの世を利己的行為一色にぬりつぶしたいがためになされたものだと言われても仕方ないように思われます。


 考えてもみてください。生物個体X(身体のなかに遺伝子Xがあるとする)が他生物を食べることは、ドーキンスの考えでは、遺伝子Xが、生物個体Xの身体をあやつって他生物を食べさせることです。そうして他生物を食べさせると、生物個体Xの身体が利益を得、その身体のなかにいる遺伝子Xも利益を得ることになり、いっぽう食われた他生物の身体のなかにいるライバル遺伝士は不利益を与えられることになると彼はします。しかし遺伝子Xがライバル遺伝子を「押しのけた」(遺伝子Xによる利己的行為)とドーキンスには見えるこの事態は、ライバル遺伝子が遺伝子Xに自らをさし出したもの、すなわち、遺伝子Xに利益を与え、ライバル遺伝子自らは不利益をこうむったもの(ライバル遺伝子による利他的行為)と見ることもできます。つまりひとつの事実が、遺伝子Xによる利己的行為とも見えれば、ライバル遺伝子による利他的行為とも見えます。


 よって、生物個体による利己的行為と利他的行為をともに、ドーキンスがやったように、遺伝子による利己的行為に読み替えてよいのなら、ドーキンスとまったく同じ事実を見ながらも、それとは正反対に、生物個体による利己的行為と利他的行為とを、遺伝子による利他的行為に読み替え、この世は遺伝子同士がたがいに「犠牲になりあう(ゆずりあう)世界」だと結論づけても良いわけです。


 或る生物個体が他の生物を食べるのが、遺伝子による利己的行為なのか、それともライバル遺伝子による利他的行為なのか、いったいどなたが知り得るでしょう。仮にドーキンスの言うように擬人化がものの理解に役立つのだとしても、遺伝子に利己的行為とか利他的行為を想定するのは無理がありますし、逆に遺伝子の事実を捉え損なう足手まといになりかねないのではないでしょうか*1

つづく


前回(第7回)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月21日に、利己的行為という言葉にかぶせていた〈〉と、利他的行為という言葉にかぶせていた《》を削除しました。