*自力で窓を閉めることのできる人間は存在するか第1回
脳科学が台頭しはじめたころ、俺は思った。これからはコレだ、と。そして心のよりどころを求めるように脳科学にムチュウになった。
さいしょに読んだ脳科学の本は、書店では多湖輝さんの本の並びに置いてあるようなものだった。脳は内っかわから三層あるといったようなことが書いてあった。ヘビの脳、ウサギの脳、新しい脳と名づけてあったと記憶している。活字がニガテな俺が繰りかえし読んだ数少ない本のうちの一冊である。で、そのあと、有名脳科学者(コマーシャルなひとではなく、アカデミックなひと)の本へと、俺はオトナの階段をのぼっていった。
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脳科学という分野はこれからグングン伸びてきて、「オキャクサン、黙って座ればピタリと当てるヨ、脳科学ダョ」といわんばかりに人間のことはなんでも解き明かし、本当のことを言えているのか言えていないのかよくわからない人間研究の現状を一気にぶち破ってくれるのではないかと、なんにも知らないくせに偉そうに考えていた当時の俺である。
ところが同時に脳科学の何かがひっかかってもいた。
脳科学の言説を飲み下そうとするたび、喉に魚の小骨がひっかかるときのように、脳科学の小骨が俺をチクリと刺した。
「お前さん、あたしを信じてこのまま進むと、人間の大事な何かを見落とすことになりゃしませんかね。立ちどまって、ようく考えてごらんなさい。脳だけ研究してりゃイイなんて、すこし話がうますぎやしませんか」
自分の頭蓋骨の裏っかわが見えそうになるくらい、俺は自分のうちっかわをのぞきこんで、突き刺さっている小骨の正体を突きとめようとしたが、自分でも脳科学の何が気になっているのか、よくはわからなかった。
そのときは、だ。
いまはちがう、いまならわかる。こういうことである。
脳科学によると、みなさんが何を思い、何を為すかは、みなさんの脳のさじ加減ひとつである。みなさんの脳がみなさんに、ビートたけしのやっている「コマネチ」をさせようと思いつき、みなさんの身体にそうさせさえすれば、スクランブル交差点でひとごみのなか信号待ちをしている最中であっても、みなさんは、執拗かつ熱心に「コマネチ、コマネチ!」とポーズを決め続けることになる。
「いや、わたしはそんな恥ずかしいマネは絶対にしない」と強い確信をおもちのかたもおいでだろう。
そうしたかたは、こうお思いなのかもしれない。
いくらわたしの脳が、わたしを好きなようにしようったって、それはわたしの心が許さない。わたしの心は、わたしの脳の活動をコントロールすることができ、現に日々コントロールしているのだ、と。
しかし脳科学の説くところによると、みなさんの心は、みなさんの心を自らコントロールすることもできなければ、みなさんの脳をコントロールすることもできず、ただただみなさんの脳に一方的にコントロールされるだけのシロモノである (みなさんの心がみなさんの脳をコントロールするという考え方をデカルトが『情念論』で披瀝しているけれども、そうした考えを現代のアカデミックな有名脳科学者がデカルトを名ざしして激しく非難しているそんな文章を、寡聞ながら俺はかつて目の当たりにしたものである)。
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みなさんがどんなにご自分に自信をお持ちになっておられようが、脳科学では、みなさんの心は、みなさんの脳をコントロールできないことになっている。みなさんの脳が、今度、ひとごみのなかでみなさんに「コマネチ!」を連発させることになるかどうか、みなさんの心は、ただ指をくわえて見守るしかない。脳科学を信じるかぎり、みなさんが衆人環視のもと大恥をかくことになるもならぬも、ひとえにみなさんの脳のさじ加減ひとつである。
このシリーズは全4回でお送りします。