(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

自然淘汰は個体の死にやすさの問題ではなくて、跡継ぎ問題なんじゃないかな

*進化論はこの世をたった1色でぬりつぶすんだね第10回

 では、ここで、群淘汰論者やドーキンスたちによる読み替えのきっかけとなった、生物個体には、利他的行為(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為)は淘汰されてすでに無く、今現在利己的行為(自らの利益を得、他に不利益を与える行為)しか存在しないにちがいないとする「進化論的理論」が単にあやまっているだけだったことをドーキンスたちの力を借りて俺たちで確認いたしましょう。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 


 群淘汰論者やドーキンスが、生物個体による利他的行為(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為)を、生物集団または遺伝子による利己的行為(自らの利益を得、他に不利益を与える行為)へ読み替えるのをさきほど見ました。その読み替えで彼らは、生物個体による利他的行為が淘汰されてすでに無くなっているはずだと進化論的に考えたのがあやまりである理由をじつはそれとなく示唆してくれていました。彼らは気づいていなかったようですけれども。


「進化論的理論」と現実とがくい違ったのをきっかけに、彼らははじめて、利他的行為(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為)をうける側の他個体について考えるようになりました。そして、生物個体が利他的行為をその仲間にたいしてとると(仲間に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為をとると)、その仲間が利益をうけるということに群淘汰論者は気づきました。いっぽうドーキンスも気づきました。ある生物個体が利他的行為を子にたいしてとると(子に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為をとると)、子が利益を得、かたや親や兄弟姉妹に利他的行為をとると(親や兄弟姉妹に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為をとると)、親や兄弟姉妹が利益を得るということに、です。生物個体は利他的行為をとると(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為をとると)死ぬ確率が高くなるけれども、その反面、当の利他的行為をうける仲間や親族は利益を与えられて、生き残っていく可能性が増すというこのことを先ほど、郡淘汰論者やドーキンスは俺たちに説明してくれていました。


 しかしこのことについて、郡淘汰論者もドーキンスもこれ以上は何も言っていませんでした。では、ここから先は俺たちが単独で見ていきましょう。いきなりですが、たとえば、生まれて間もないほとんど何もできない子供に親が利他的行為をほどこして利益を与える集団と、生まれて間もない子供に親が何もしない集団とを比べてみるとどうでしょうか。


 このふたつの集団を比べてみますと、後者の集団のほうが、子に利他的行為をとらない分、親たちが生き残る可能性は高いけれども、逆に、子孫が残っていく可能性は低く、ひいては集団が絶滅する可能性も高いと言えるかと思います。たしかに生物個体は利他的行為をとると、自らは不利益をこうむって、死ぬ確率が高くはなりますが、いま見ましたように生物個体による利他的行為は、跡継ぎ(子孫)がつぎつぎと続いていくのに役立つことが可能です。


 進化論は、生物個体による利他的行為(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為)が自然淘汰されるかどうかということを、当の行為をとることで、生物個体が死にやすくなるかどうかの問題と考えます。そして、利他的行為をとると当の生物個体は死ぬ確率が高まるため、生物個体による利他的行為は自然淘汰されてすでに無く、利己的行為しか存在しないにちがいないとする「進化論的理論」を最初に立てました。しかし、子に利他的行為をとる親たちの集団と、子に利他的行為をとらない親たちの集団とを俺たちが独自に比べてみてわかったように、自然淘汰されるかどうかは、生物個体の死ぬ確率が高まるかどうかの話ではありませんでした(どうせ、どの生物個体もいつかは死にます)。自然淘汰とは、跡継ぎがつぎつぎと続いていくかどうかの問題でした。


 跡継ぎがつぎつぎと続いていくのに、生物個体による利他的行為が役立つのであれば、利他的行為がこの世にいまも存在していて何の不思議もありません。生物個体による利他的行為は淘汰されてすでに無くなっているはずだとする「進化論的理論」は、そもそも自然淘汰を跡継ぎ問題として把握しておらず、あやまりだったわけです。


 いまや理論と現実の背反はなくなりました。生物個体による利他的行為(他に利益を与え、自らは不利益をこうむる行為)が今現在、存在するという現実をうけいれるのに妨げとなる理論はもはやありません。今現在、利他的行為ははすでに無く、存在するのは利己的行為(自らの利益を得、他に不利益を与える行為)のみであるにちがいないとする「進化論的理論」を、生物集団あるいは遺伝子に当てはめなおして死守する理由もありません。そうまでしてこの世を、生物集団あるいは遺伝子による利己的行為一色にぬりつぶすのがあやまりであるのはすでに明白です。この世は生物集団あるいは遺伝子が「押しのけあう」だけの世界ではないと、ここにいたって俺たちは断言できます。じっさいのところこの世は、(当たり前のことですが)生物個体たちが利己的行為や利他的行為をとったり、うけたりして生きていく世界です。


 こうして俺たちは、この世界を、利己的行為と利他的行為の二色刷と見られるようになったという次第です*1

つづく


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月22日に、利己的行為という言葉にかけていた〈〉と、利他的行為という言葉にかけていた《》とを削除しました。