(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

自力で窓を開けていると脳に思わされているだけ

*自力で窓を閉めることのできる人間は存在するか第3回


 が、こんなことを言っていると、こう言われそうである。


「お前さん、でもね、窓を開けようと思いたち、窓辺まで歩いて行って、窓を開けるようなとき、オレは終始、自分がやっていると感じるよ。すべては脳のさじ加減ひとつと言うがね、自分がやっているというこの感じはどうなるよ。脳科学はこれについて何と言ってるね?」


 しかし、脳科学者ではない俺にそんなことを訊かれても困ると、クソである俺はお答えするしかない。とはいえ、そんな答えかたは、そう答える俺自身も傷つくほどにぶっきらぼうである。クソでド素人の俺なりにこうおシャベリしてみようと思う。


 窓を開けようと思いたってから、じっさいに窓を開け終わるまでのあいだ中ずっと、自分で窓を開けようとして開けていると誰しも感じるものであるが、こう感じることをいま、適切かどうかはわからないが、自力感と名づけることにする。


 この「自力感」については、超寡聞な俺の知るかぎり、脳科学は何も言っていない。脳科学に関して、「自力感」への考察が欠けていると指摘した声も、俺は聞いたことがない(俺が何にも知らないだけという可能性は大いにあるが)。したがって、この「自力感」について脳科学がどう考えているのか何とも言えないところであるけれども、これまでの脳科学の考えかたからいけば、こうなるのではないかと、クソでド素人ながら俺は以下推測する。


 すなわち、みなさんの脳が、みなさんの心に、窓を開けるという考えを持たせる。で、そのとき、みなさんの脳はみなさんの心に、窓を開けるということを自分で思いついたと思わせる。


 で、さらにひきつづき脳は、みなさんの身体に、席を立たせ、窓まで歩かせ、窓を開けさせるが、そのときもみなさんの脳はみなさんの心に、自分で席を立ち、自分で窓辺まで歩いていき、自分で窓を開けたと思わせる。


 ようするに脳科学的に考えれば、窓を開けようと思いたつところから、窓を開け終わるまでの一切をじっさいにやるのはみなさんの脳であるけれども、みなさんの脳はそのときみなさんの心に、自力でやっていると思わせるということになるのではないか。


 みなさんの、自分でやっているという感じは脳がつくりあげた幻想にすぎないとするわけである。

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全4回)の記事一覧はこちら。