「いやぁ、妻が、着ていく服がないと言ってね」
「だってぇ」
「鏡のまえで、服を着たり脱いだりでもうほんとこまっ」
「も〜やめてよ〜」
「あれあれ、ちょっと待ってくださいよぉ」
よれよれのレインコートを着た男がこの夫婦をさえぎって言う。
「奥さんが、着ていく服を持ってないとおっしゃったといまお伺いしましたが、ヘンですねぇ、奥さん、鏡のまえで着たり脱いだりなさってたんでしょう?」
「いや、だからそれは」
男はびっくりした表情をとりつくろおうとはしない。
「妻は服が一着もないと言ったんじゃないんです。今日のパーティーに着てくるのにふさわしい服がないと言ったんだ」
まぁ、それはそうだろう。
その場にふさわしい服装を求められるときがある。葬式や結婚式などがそうだ。ところが結婚式の二次会ともなると話しはちょっと変わってくる。二次会への招待ハガキには「平服でお越しください」と書いてあったりする。それを読んで、礼服で行く人もいるだろうし、スーツで行く人もいるだろう。白いシャツの上にジャケット、そして下は綿パンという人もいるはずだ。
このあたりになると、どんな服をその場にふさわしいと考えるかは人によってかなり違ってくる。首もとがヨレヨレに伸びたTシャツは明らかにそういう場にふさわしくないが、着てくる人もいるのである。そういう人は下にジーンズをはいている。
「いやでも、うちのカミさんが言うにはね、ジーン」
いまは異議を受けつけません。あしからず。でもそのレインコートの下のタキシード姿、とてもステキですよ。
「いやぁ、それにしても、先程の女の人の。あれはいっぷう変わったドレスでしたねぇ」
美しい淑女には似合いますね。彼女は自身の美しさをいつも意識しているようです。
彼女はパーティーという場で自身がまとうにふさわしい衣装を鏡のまえであれでもない、これでもないと選んでいた。彼女にとって、ありきたりの衣装はふさわしくなかった。が、それにしてもいつからそんなに彼女は着るものにうるさくなったのだろう。体型が気になり出してからだろうか。
彼女は、鏡の中の、衣服をまとっていない自身の姿をまじまじと見て、かつての腰のくびれと胸の弾力をなつかしむ。そして、衣装戸棚の中にしまってあった衣装を次々と身にまとっては、鏡の中の今の姿を恥じ、溜息をつく。彼女は、誰からも見放されてしまった時のような焦燥感を覚えながら、自分の美を引き出してくれる衣装を必死に探す。今も残っている、自身の美をみんなの前で証明しなくてはならない。
わたしが高橋の書いたエッセイで忘れられないのは、彼が二十歳の頃、いまでいう過激派の一員として捕らえられ、東京拘置所に入っていた時の話である。彼は毎週ガールフレンドと面会したり、友人と手紙のやりとりをしているうち、だんだん苦しくなってくる。会う前にはいいたいことは山ほどあるのに「何をどんな風にそこでしゃべればよいのか全くわからな」い。やがて、それがこうじて面会になると「動悸がし、顔があつくなり、一語でもしゃべろうとすると舌がもつれ、どもってしまう」。「ペンを握り便せんにむかうと、恥ずかしくて手が震えるのです。言いたいこと、かきたいことがあるのに、いざ、しゃべり、かこうとすると、まるで強制されているような気がする」、そしてその「強制されているという感覚」は、いつまでも長く残ったという*1。
お気に入りの服が着られない体型になってしまった彼にはもはや、その辺りに見つかる言葉はふさわしくなかったのだ。以前とは体型の異なる今の彼女が、むかし着ていた衣装を避けるように、高橋は、ありきたりな表現を「迂回」しながら、自身の思いにふさわしくひびく表現を新たに求めた。
そして彼の小説は、悲しく優しい詩となって鳴った。そのユーモアが微光を放つ。
昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。
そう本に書いてあった。
大昔は本当にそうだったのかも知れない。
そしてその名前は、ピョートル・ヴェルヘーボンスキイとかオリバー・トゥイストとか忍海爵とかいった有名な小説の主人公と同じ名前だった。
ずい分面白かっただろうな。
「おいおい、アドリーアン・レーベルキューン殿、貴公いずこへ行かれるのか?」
えっ、どない誤解しようががわいのかってやないけ、そうやろ、高橋源一郎ちゃん、とはいけへんでって? かんにんやで。かんにんなぁ。