(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

音から音をとり除くと、空気や液体の振動があとに残ると?!

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第13回


 存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替えるために、科学が存在の実際の姿から、ほんとうは当の存在には属していないものとして取り除き、私の意識内部へ移し替えるものには、先に見た容姿を含む)のほかに、匂い感触重さも含む)がある。このなかから、もうひとつ、音について確認しておく。


 存在をただ無応答で在るだけのものとするために、科学が、存在の実際の姿から音をほんとうは存在には属していないものとして取り除き、私の意識内部へ移し替える次第は次のとおりである。


 帰宅後、洗面所で手を洗っていると、音がかすかにする。耳を澄ましてみると、リビングのほうから聞こえてくるのがわかる。そこで私がリビングに近づいていくと、電話の着信音の姿(音に姿という表現を用いるのはおかしいと思われるかもしれないが)刻一刻と大きくなってくる(あくまで大きくなるのは音の姿であり、音量ではない。ここでは音量を一定と仮定する)。そして私はリビングのソファのうえに、スマートホンを見出す。


 いまあげた例では、音は、「私の身体(聞き手の身体)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えてその姿を変えていた。そのように音も、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである(ちなみに匂いも味も同様である)。いま見たように、着信音に気づいてから、スマートホンを見つけるまでのあいだに私が耳にしていた着信音の姿は一瞬ごとに変化していた。それこそ、私がその間に耳にしていた着信音の姿は複数あって、それらはすべてたがいに異なっていた


 しかし科学にとっては音もまたただ無応答で在るだけのものである。音量が終始一定なら、着信音は、私が手洗いに気を取られようが、耳を澄ませようが、洗面所にいようが、リビングに近寄ろうが、何ひとつとして異なるはずはないと科学はする。


 このように、実際の音の姿と、科学が音と考えるものとは一致しない。


 そこで科学は、音を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替えるために、自らの見解ではなく、現実のほうを修正する。着信音に気づいてから、スマートホンを見つけるまでのあいだに実際に私が耳にする着信音の複数の姿からそれらの姿同士のあいだにある違いを、ほんとうは当の音には属していないものとして取り除き、私の意識内部へ移し替える。で、そのあとに残るものこそほんとうの着信音だとする。そして、最後に残るほんとうの着信音とは空気の振動だとする。科学はこのように音から、現に私が耳にする音を取り除き、そのあとに残る、空気や液体の振動のことを音とし、こう考える。


 外界から耳のなかに入り、最後、脳にまでたどり着いた(聴覚)情報をもとに、脳は、外界にある空気や液体の振動のコピー像を私の意識内部に作り上げるが、その際、そのコピー像に、私が現に聞いている音という、外界に実在している空気や液体の振動には属していない要素をつけ加えるのだ、と*1

つづく


前回(第12回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月1日に、内容はそのままで、表現のみ一部修正しました。