(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』

ふと気がつくと、グラウンドの上で走っているのが、自分ひとりであることに気づくことがあります。(高橋源一郎*1

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 


 学びとは「まねぶ」から来ている。つまり、学びとは真似ることなのだーーー誰かがそう言っているのを確かに聞いた気がしている。が、それを聞いて以来、釈然としない思いがずっと胸中にあった。


 もし学ぶことが真似ることなら、真似るのが下手くそな自分は、よく学ぶことができないことになる。そう思って、なんでもすぐに真似てしまう、器用な人たちに私は嫉妬し、ずっと釈然としなかったというわけなのだろうか。


 昔、同じくらいの時間、勉強していても、周りの級友のほうが成績は良かった。けれども、いや、勉強はちょっとできないくらいがいいのだと私は思っていた。すぐにはわからなくて、そこから疑問を覚えたりするくらいがちょうどいいのだ。


 いや、むしろそうでないといけないのだと信じていた。


 その実、問題集をあけて、野球や女の子のことをつい考えてしまっていただけなのだが……。


 しかし、真似たところで何か手応えがあるだろうか。学ぶことには何かしらの喜びがつきもののはずである。自分が一段成長したような。真似るだけではそんな喜びを得ることはできないだろう。


 それに、ただ真似ているだけでは、間違ったものをそのまま真似ていてもわからないではないか。


『一億三千人のための小説教室』で著者は、小説は「つかまえる」ものだと言う。小説を「つかまえる」とは、今までには無いものを手に入れることである。

 わたしが、みなさんに、書いてもらいたいもの(いや、これは傲慢な言い方でした。わたしが読みたいもの、と言い換えましょう)、それは、あなたが最後にたどり着くはずの、あなたひとりだけの道、その道の向こうにあるものです*2


 そうだ、きっと学ぶとは「つかまえる」ことだ。自分がまだ持っていない何かを得るのが学ぶということなのだ。真似るのは、その何かを得るための一つのきっかけにすぎないのだ。


 この著書で高橋さんは小説を「つかまえる」ための方法を教えてくれる。その方法が小説で遊ぶことであり、真似ることなのである。


 で、そうして小説を「つかまえる」とどうなるのだろう。小説を書けるようになる?


 確かにそうかもしれない。しかし、小説って何? そういえば、高橋さんはこの著書で小説とは何なのかを語ってくれている。


 きっと小説を「つかまえ」た時、私の言葉は今までとは全く別のものになっているのだろう。だとすると、世界が全く違って見えるようになっているのかもしれない。いや、私自身もまた、傍目に以前とは違って見えるようになっているのではないだろうか。

(了)

 

*1:同書p.158頁より

*2:同書まえがき8頁